紳也特急 169

~今月のテーマ『続けていてよかった』~

○『別れもあれば出会いも』
●『忘れられない患者さん』
○『会ってビックリ』
●『告知』
○『笑いあり、涙あり』
●『「エイズ」にイメージがわかない』
○『事実を伝えることに臆病にならない』

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○『別れもあれば出会いも』
 お陰様で先月、AIDS文化フォーラム in 横浜が20回目を迎えることができました。正直なところ、ここ何年かは続ける意味があるのか否か、自分の中で必ずしもしっくり落ちていませんでした。もちろん多くの方にご協力、ご支援、さらには励ましの言葉をいただき、感謝の気持ちを持ち続けてきたことも事実です。ただ、AIDS文化フォーラム in 横浜の役割が何かを考えても答えが見つからないという思いを捨てきれませんでした。
 20年を振り返ると多くの出会いもあれば、別れもあり、その一つひとつがフォーラムを続ける原動力になっていたことも事実です。第1回からずっと一緒にセッションをやってきたパトの死。これは紛れもなく自分自身にとっても一つの区切りであり、厳しい現実でした。いつもフォーラムの初日の16時~18時に402教室にいたパトが今年はいませんでした。その「パトを偲ぶ会」を同じ時間に、同じ場所でやって人が来るのだろうかと心配しつつ、準備のために昔のアルバムをめくっていたら第1回のAIDS文化フォーラム in 横浜でコンドームの装着法のセッションを一緒にやっているパトと私がいました。われわれのセッションの19年間を思い出しながら、「ま、人があまり来なくてもいいや」と思っていたら、本当に大勢の人が来てくれました。
 「ビールでいい」じゃなく「ビールがいい」
 「自分が決めたことだから、反省はするけど後悔はしない」 いろんなメッセージを多くの人に残してくれたパトの19年間だったのを改めて振り返っていました。今では当たり前のように続けられているアミューズのAAA(Act Against AIDS)ですが、AAAを立ち上げた時に、パトがアミューズの本社で多くのミュージシャンの前であのポジティヴなトークを行ったとのことでした。実はAAAの次世代を担いたいと立ち上がったFLOWのメンバーもこのパトを偲ぶ会に来てくれていました。
 そうやって無事初日を終えた翌日、かながわ県民センターの廊下で「岩室先生ですよね、〇〇です、覚えていますか?」と突然声をかけられました。決して珍しい名前ではありませんでしたがすぐに誰かわかりました。私が最初に看取ったAIDSの患者さんのお子さんでした。そこで今月のテーマを「続けていてよかった」としました。

『続けていてよかった』

●『忘れられない患者さん』
 こうやって20年にわたってAIDS文化フォーラム in 横浜を続けてきたのも、そして毎年100回も学校で講演しているのも、これまで関わらせていただいた当事者の方々私に多くの学びをくださったからでした。
 私の最初のHIVの患者はパトでした。1994年の国際エイズ会議が開催される前年のイベントで知り合いました。当時はAZTという薬しかなく、病気に関係する検査もCD4ぐらいしかできず、ウイルス量も測定できませんでした。ただ、彼はすこぶる元気だったので最初の頃は特に治療をすることなく、あまり患者さんという感じではありませんでした。
 第1回のAIDS文化フォーラム in 横浜が終わった後、HIV/AIDS診療の先駆者の先生から、「AIDSで余命3ヶ月の患者さんを診てもらえないか」という相談を受けました。「AIDS診療の経験がないのですが」とやんわりと断ろうとしたら「大丈夫、いま治療薬がないから看取るだけでいい」と言われ、上司と相談して転院していただくことにしました。

○『会ってビックリ』
 何はともあれ、転院前に患者さんに会い、主治医の先生に少しでも病気のことを教わらなければと思い、会いに行った患者さんは何と日本人の女性でした。HIV感染は少し前に亡くなっていたご主人から。ご主人はHIV/AIDSが最初に広がった海外での生活が長かったのでそこで感染していたのではとのことでした。理屈上ではあり得ることでも実際に異性間、それもご夫婦での感染というのは自分自身の意識を大きく変えてくれました。
 いまでこそ累積患者数が115人となった厚木市立病院ですが、当初は受け入れに対して不安がなかったわけではありません。ただ、患者さんが転院してきた時に看護師さんたちの心をつかんだのはお子さんの存在でした。患者さんが思い通りにならない体に鞭を打ちながら一所懸命子育てをしている姿に、くの看護師さんたちは自らの子育てを重ねながら看てくれていました。結果的に一緒にいる時間はそう多くは作れなかったのですが、つい先日も「あの時のお子さんはどうしているんだろうね」という話をしていたところでした。ご両親を亡くしたその子は、地方の祖父母の所に引き取られていったこと以外、その後のことを知る由もありませんでした。

●『告知』
 ところが、突然、AIDS文化フォーラム in 横浜の会場で声をかけられた時に、一瞬にして19年前にタイムスリップしていました。しかし、フォーラムで忙しくしていたため、ゆっくり話す時間をとることも出来ず、名刺を渡して連絡を取り合うことにして、後日ゆっくり会って話をすることが出来ました。
 二人だけで会うまでの間、会ってどのようなことを聞きたいのだろうか。どうしてこの時期なのだろうか。どのような話をすればいいのか。いろんなことを考えていましたが、会ってみると亡くなったお母さんという共通の話題があり、和やかな雰囲気で、お店の閉店時間まで話し込んでいました。
 おじいちゃん、おばあちゃんからの告知は中学3年生頃だったようです。ただ、本人にすればそもそもHIV/AIDSということがよくわからず、両親がAIDSで亡くなったと聞かされてもあまりピンとこなかったとのこと。その後、成人し、パートナーもでき、自分も結婚するかもと思うようになった時に自分の親のことを思い出し、その頃の話を聞きたいと思うようになって岩室紳也、そしてAIDS文化フォーラム in 横浜にたどりついたようです。
 今の20歳過ぎの若者たちに「『HIV』や『AIDS・エイズ』と聞いて思うことは何?」と聞いてみてください。おそらく「病気の名前」ぐらいにしか思っていないでしょう。最近学校で講演した後、「エイズという病気は命に関わる病気なので気をつけたいと思います」という感想をよくもらうのですが、いまや「HIV/AIDS」は聞いたことがあればまだましな病気のひとつになっています。だからこそネットでいろんなことを調べるものの、なかなかこれといった情報に行きつくことができません。

○『笑いあり、涙あり』
 食事をしながらの再会、といっても親のことも覚えていないのに私のことを覚えている筈もないのですが、おじいちゃん、おばあちゃんから「岩室先生」という名前は聞いていたとのことで、それなりに身近な存在だったようです。私にとっても20年近くも前の小さな子どもが成人して私の前に座っているので覚えている筈もないと思うでしょうが、不思議とお母さんの面影があり、とても初対面(先の一瞬の出会いを除けば)とは思えない感じでした。何とも不思議な関係でしたが、実は私には話すこと、話したいこと、話さなければならないことがいっぱいありました。
 ご両親が感染した頃は外国でもまだHIV/AIDSはセンセーショナルな、自分には無関係な、身近ではない病気でした。無念にもそのような病気になり、幼子を残して先立つことを余儀なくされた一人の女性が目の前に大きく、立派に育った若者のお母さんだったのです。そのお母さんが残された時間を必死に生き、子育てをし続けていた姿は、私だけではなく、多くの職員のこころに深く刻み込まれました。その話をしていた頃には、当時、みんなで患者さんのことを呼んでいた愛称でお母さんのことを話していました。

●『「エイズ」にイメージがわかない』
 HIV/AIDSがまん延し始める初期の頃から関わってきた私の世代は、HIV/AIDSに対する誤解や偏見をどう払しょくするかを考え続けてきました。われわれ世代にとって、イマドキの若者たちの無関心はある意味ほっとするような、もう少し自分の問題と考えてもらいたいと思うような複雑な心境になりがちです。 しかし、今回、本当に自分の身近な問題としてHIV/AIDSのことを直視しようとしている若者と話をしていて、実は「本当に知りたい情報」がどこにもなかったのだという事実を改めて教わる結果となりました。HIVというウイルスが、CD4という免疫力をつかさどる細胞に・・・・といったことは実は一人の人がHIV/AIDSと共に生きてきた姿を伝える上ではどうでもいいこと、というか、あまり意味がない情報です。目の前の若者が求めていたのは、母親がどのような思いでHIV/AIDSと共に生きてきたか。どうして両親がその病気で命を落とさなければならなかったのか。さらにその事実を背負いながら成人してみると、自分自身を含めて、実は周りがほとんどHIV/AIDSについて知らない、身近に感じていないという事実をどう受け止めればいいのか、ということでした。

○『事実を伝えることに臆病にならない』
 こう書きながらちょうど原爆や戦争のことを考えていました。「はだしのゲン」が伝えようとした原爆や戦争の悲惨さを知らない世代が確実に増加しています。と同時に、今でもなお原爆や戦争のことでつらい思いをされている方も少なくありません。もちろん知らない世代に正しい知識を持ってもらう努力をし続けることも大事ですが、残念ながら過去のことは少しずつ忘れられてしまいます。
 HIV/AIDSが不治の、偏見の目で見られていた時代は既に過去のものになったようです。確かにあの時代に生きていたものからするとどうしてあのような偏見や誤解が蔓延したのかを検証し、同じ間違いが繰り返されないようにする義務があると感じています。ただ、「事実を伝える」ことに臆病になっている状態では誤解や偏見、無理解が蔓延することは、HIV/AIDSだけではなく、原爆でも、戦争でも同じです。
 HIV/AIDSに誤解や偏見があった時代に亡くなっていった一人ひとりの方々も、その生き方は決して後ろ指を指されるようなものではなく、普通に、一所懸命に生き、共に笑い、共に泣いた仲間でした。今回、AIDS文化フォーラム in 横浜がきっかけとなって約20年ぶりの再会を果たすことが出来た中で、一人ひとりの生き様という事実を伝え続けることに、臆病にならないようにしたいと改めて思いました。出会いに感謝しつつ、これからも可能な限り伝え続けたいと思いました。