紳也特急 227

~今月のテーマ『悩める人、悩めない人』~

●『すわりたい』
○『誰でもよかった』
●『動機なき行動』
○『悩める人』
●『悩めない人』
○『警察からの講演依頼』

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●『すわりたい』
 電車の中で「すわりたい」と大声で叫んでアピールしている4~5歳ぐらいの子どもを見たことはありませんか。私自身、子どもたちが乗ってくる時間帯に電車を使うことはそう多くはないのですが、その少ない経験の中で、一人だけならいざ知らず、最近、同じようなお子さんを複数回目にしています。保護者は叱るでもなく、一方で仕方がなく席を譲る人もいます。そんな時、保護者も子どもも当たり前のように座ってしまうのにはあきれてしまいました。
 このような光景を目にした時、私の脳裏をよぎった言葉が「大久保清」でした。親の溺愛の下で育った末、自分を抑制することができなかった連続強姦殺人犯です。1971年に逮捕、1973年に死刑判決、1976年に死刑執行なので、40年以上も前の事件です。当時、我慢が出来ない子どもに大人たちは「大久保清みたいになるぞ」と言っていたことが脳裏に鮮明に残っています。
 本能の赴くまま行動し、反社会的なことを繰り返す人がいます。しかし、多くの人は思い通りに行かないことや悩みがあっても、我慢をし、何とか社会性を保ち、悩みを克服し続けています。この違いは何かを考えていた時、「最近、悩まない子どもたちが増えています」という指摘を聞きました。そこで今月のテーマを「悩める人、悩めない人」としました。

『悩める人、悩めない人』

○『誰でもよかった』
 凶悪な事件が起こる度に、「誰でもよかった」との犯人の発言にご家族、関係者の方々はもとより、世間の多くの人が「何で・・・」という思いになり、ご家族、関係者はそれこそご自身が亡くなられるまで、事件のことを引きずられることと思います。このような事件が繰り返されているにもかかわらず、「何故『誰でもよかった』と言う発想になり、それを行動に移す人がいるのか」がきちんと検証されていないのでしょうか。それとも、答えは出ているのに、私の不勉強でそれを知らないだけなのかもしれませんが、自分なりに「何故『誰でもよかった』のか?」を考えてみました。
 殺人事件が起こる度に皆さんは報道の何をご覧になっていますか。私はテレビやラジオ、インターネットのニュースや報道、さらには新聞記事に「動機」と言う言葉がどれだけ登場するかを検証しています。そして、発言者や記事を書いている人が「動機が分かるまで次の分析ステップには進めません」と安易に考えていることを何度も見てきました。2008年の秋葉原事件もその一つですが、その後の報道を検証し続けても、私が納得できる犯人の「動機」の報道はありません。

●『動機なき行動』
 「動機のない行動なんてあり得ない」、「動機のない殺人なんてあり得ない」と思っていないでしょうか。「誰でもよかったのでナイフを、ナタを振り回した」と犯人が答えたら、「誰でもよかった殺人をしたかった」というのが「動機」と思われているように思います。しかし、これは取り調べ段階で「動機は」と聞きだしたがる警察の質問に誘導された回答ではないでしょうか。もちろん想像の域は出ませんが以下のようなやり取りがあったと考えてしまいます。

警察:動機は?
犯人:とくに。
警察:なぜやった?
犯人:むしゃくしゃ、いらいらしていた。
警察:誰をねらった?
犯人:誰でもよかった。

 そして「犯人は誰でもよかった」という報道の結果、多くの国民に「犯人の動機は当然のことながら理解できない異常者の動機」としてとらえられ、結果的に犯行に至った理由についてみんなが考えないように導かれています。そうなのです、動機なき殺人事件にも、犯行に至った理由はあるのです。
 ナイフやナタ、包丁を振り回したのはただただストレス解消のため、不満のはけ口が欲しかったから、いつも通りに対戦型ゲームで武器を振り回している感覚と同じだったと思いませんか。だから警察官から銃を奪うために30数か所も刺してしまうのです。もちろん標的が生身の人間だということを考えたことも、実際に事件を起こした後も考えられない、というか感じることもないでしょう。

○『悩める人』
 「悩み」を広辞苑で調べると、「なやむこと。くるしみ。思いわずらい。」とあります。動物の場合、障がいを抱えていたりしても、その状況について悩んだり、思いわずらったりするのではなく、淡々とその状況を受け入れているように感じることが多々あります。それに対して人間は「健常者と比べて」や「元気だったころの、障がいを抱える前の自分と比べて」といったところでいろんな悩みを抱えてしまう存在です。すなわち、関係性が悩みを作っていると言えます。逆に悩める人は関係性をそれなりに構築できている人です。
 ただ、この関係性、絆(きずな:つながり)は時に絆(ほだし:手かせ、足かせ、束縛、迷惑)にもなり、面倒になったり、他人と必要以上に比べ、悩みを膨らませ過ぎたりする人もいます。この人たちにとって「必要以上に比べない」ための経験やトレーニングの積み重ねが必要になります。人間、すなわち人と人の間に生きている存在である限り、つながりのバランス感覚を鍛えることが求められています。

●『悩めない人』
 つながりのバランス感覚は容易に身につくものではないため、つながりを断つという選択肢もあります。周囲との関係性を考えることなく、自分ファーストを貫き通し続けている人、そのように育てられている人、「すわりたい」を貫徹している人は、周囲の人たちの存在は無いに等しく、他の人にとって抑止力となっている関係性、絆(ほだし)が機能しないことになります。そして自分ファーストを貫き通せなくなった時、そのストレスを解消するために周囲との関係性を遮断してひきこもるか、それともストレス解消のためにたまたまとった行動が結果として反社会的なものになり、罪に問われることになるかのいずれかではないでしょうか。ここで「結果として」と敢えて書いているのは、社会性とはいろんな人間関係の中で育まれるものだからです。結果として反社会的な行動をとっている人は、少なくともその瞬間は「他者を感じていない」のです。本人にとっては個人的なストレス発散行為というだけで、ターゲットとなっている人が人格を持った存在であることが認識できていないからこそ、そのような行動がとれるのです。

○『警察からの講演依頼』
 性教育の仲間の愛知思春期研究会の中谷先生のご紹介で8月2日に愛知県警察本部主催の性犯罪予防のためのイベントで講演することになりました。薬物同様、性犯罪は「だめ、絶対」なのです。なのにどうして性犯罪が繰り返されるのでしょうか。
 「男が痴漢になる理由」(斉藤章佳著)に「女性も喜んでいると思っていた」という犯人の心の内が紹介されていますが、このようにコメントしている犯人はそもそも犯罪のターゲットになった女性を生きている、一人の人格を持った存在だという認識はないでしょう。よく「自分の家族だったらどんな思いになるのかを考えて欲しい」とコメントをする人がいますが、そもそもそのような罪を犯す人は被害者を自分の家族のような存在だと思えない、感じられない、ただただ自分の前に存在する性欲のはけ口としか思えないのです。このように、反社会的な行動に出る人たちを罰して、その脅し効果で犯罪を減らそうと社会の多くの人は考えています。しかし、そもそも反社会的な行動を起こす人たち自身が社会の中で、すなわち、他者の存在を感じながら生きていないことに問題があることを伝えたいと思っています。
 犯罪予防も一人ひとりがつながるこころの健康づくりから考え、実施する必要があります。しかし、つながることを厭わない社会をどう構築していけばいいのか。できる人が、できることを。一歩ずつですね。