医者になった時、というか医学部で勉強していた時に絶対にならないと思っていたのが「公衆衛生医」でした。その岩室紳也が今は公衆衛生が面白く、個人事務所の名前を「ヘルスプロモーション推進センター」としたのは、まさしく「公衆衛生」に目覚めたからです。ヘルスプロモーションという考え方になぜ夢中になったかは次の2枚の図で説明できます。
公衆衛生を学び始めた時、「人が病気にならないためにどう指導するか」が公衆衛生だと思っていました。もちろんある意味正しいことですが、指導で人が変わるほど甘くないと内心思っていたと思いたと思います。
しかし、医学部を卒業して2年半で神奈川県立青野原診療所に赴任し、そこでいろんな住民の方と接する中で、人間はそんなに正しい生活ができるわけではない一方で、いろんな人と関わる中で、気が付けば元気になったり、その人なりに幸せな、楽しい生活ができるのだと気づかされました。
しかし、公衆衛生に嵌った一番の理由はどうもHIV/AIDSとの出会いだったと今頃気づかせていただいています。HIV/AIDSが世に知られることとなったのが1981年6月でした。CDC(アメリカ疾病予防管理センター)が性的にアクティブな同性愛者の間でニューモシスチス肺炎が広がっていると報告したことをきっかけにHIV/AIDSが認知されました。その後、当然のことのように日本でも感染している人が報告され、1994年8月に横浜で第10回国際エイズ会議が開催されることになりました。
神奈川県や横浜市は会議に多くのHIV陽性者の方が来られることを想定し、様々な普及啓発活動が行われ、当時保健所の職員でもあった岩室紳也はHIV感染予防について様々な形で啓発活動を行っていました。高校でコンドームの実物を紹介してセックスで感染しないためにはコンドームの使用が重要だと話せば神奈川県議会で「コンドームを使えばセックスをしていいのか」との指摘を受けていました。当時は「予防のことがわかっていない人が極端なことを言っている」としか思えませんでしたが、本当はそのような人たちがいることを前提にした予防啓発活動が求められているということはず~~~~っと後になって気づきました。
私が公衆衛生に嵌った一番の理由はHIVに感染しているパトとの握手でした。忘れもしない1994年1月29日、FM横浜(ハマラジ)でHIV/AIDSの予防啓発番組に自らのHIV感染をカミングアウトしていたパトことパトリック・ボンマリートさん(故人)が、感染していることは仕方がない、大事なことはポジティブに生きることと楽しく語ってくれました。その感動が冷めやらない番組終了後、思わずパトと握手をしていました。
握手の瞬間、パトの汗が自分の手につきました。医者なので汗(体液)の中にHIVがいることは承知していました。手には傷が・・・・・。そこからHIVに感染したら・・・・・。完全にパニック状態になっていました。でも相談する人もいません。当時保健所に勤務していたので3か月後、何食わぬ顔で保健所の職員に次のように呼びかけていました。
「皆さん、今年は国際エイズ会議が開催されます。全世界からHIVに感染している人が横浜に来られます。その人たちの気持ちを少しでも理解するため、エイズ検査を受けませんか」と。検査課の人にはなるべく早く結果を教えてもらえるようにお願いしたところ、「岩室先生、全員陰性、誰も感染していません」との報告を受けました。一番安心したのが私だったことは言うまでもありません。
公衆衛生は一人ひとりが病気にならない、障がいを抱えないように生きるためのものでもある(図1)一方で、実際には病気になったり、障がいを抱えたりする一人ひとりが、いろんな人とつながる中で、気が付けば幸せや楽しさを感じつつ日々を過ごしていける環境整備のためにある(図2)ことに気づかされました。
(図1)
(図2)
パトが教えてくれたように、HIVに感染してもポジティブに生きているって素敵だと思いませんか。人の生き方に正解がないように、その生き方のお手伝いをすることが役割の公衆衛生にも正解はないと気づかされた時から岩室紳也は公衆衛生に嵌っています。