自分自身が正解依存症の要素があると考えている若者が、周囲との会話で苦労をしているという話を教えてくれました。「こっちの言葉の方が適切じゃない?」と言うと疎まれるので、普段はあまり言わないようにしているとのことでしたが、私が反論と異論という言葉を使ったところ、私の曖昧な言葉の使い方を的確に指摘してくれて助かりました。この方の言語理解能力がすごい、と思う一方で、同年代の友達が指摘されたら「うざい」となるのかなと思いました。ご本人もそのことは自覚しているがあまり、疎まれないようにあまり指摘しないようにしてつらい思いをされていました。
私が新型コロナウイルス対策でいろんな人と話をしていて、「不正解・誤答・反論・別解・間違い・誤り・デタラメ・嘘」と言われ続けてきましたが、なぜか「全否定」とは受け取りませんでした。なぜそうなったかを考えてみると、自分の中に「興味・疑問・異論」があり、「興味・疑問・異論」を否定されない感覚が育っていたのかと思いました。
ケニアの小学校に通っていた時、世の中には正解がないことを叩き込まれていました。人の色も、言葉も、感覚も、それこそ収入も異なっていました。もちろん運動能力に差があるのも当たり前でしたが、Shinyaは落ちこぼれではなく、そういう人でひた。
確かに勉強ができる人と勉強ができない人がいましたが、それが当たり前でした。私が目が悪いことを理由に「教室の前の方に座りたい」と先生に訴えたら、「勉強ができるShinyaは教室の後ろに座り、勉強ができないこの子は先生の前に座るのが当たり前」と言っていました。決して教えてくれたのではなく、それが当たり前でした。日本でそのようなことを言えば今だと大炎上することでしょうが、事実は事実として認めるしかないことを教わっていました。
先に紹介した方は、社会から、大人から、親から、さらに言うと自分自身の中から様々な正解を押し付けられて育ってきたのだと改めて私との育ちの違いを痛感させられました。