法と文化のどちらが正解?

 皆さんは若い世代が事件を起こした時に、「親の顔が見たい」と発言したり、言葉にしないまでも思ったり、周りの人が発言したりするのを目に、耳にしたことはないでしょうか。私自身、最近でこそいろんなことを学ばせてもらい、「親の顔が見たい」という発想にはならなくなりました。しかし、正直なところ、不勉強だった時は何度も自分の言葉として「親の顔が見たい」を使っていました。しかし、この言葉は物事の本質を自ら考えることを放棄した結果の言葉であることに改めて気づかされました。

 7年前に保護者と同じマンションで同居していた男が当時21歳の女性を保護者の留守中に家に招き入れ殺害し、その骨を持っていたとの事件が発覚しました。まさしく「親の顔が見たい」という事件なのでしょう。この事件が発覚する前日に斉藤章佳さんが書かれた「夫が痴漢で逮捕されました」を読んでいました。

 昨今、性被害のことが注目され、様々な形でマスコミだけではなく、国会、学校現場、等々で取り上げられています。今回紹介させていただいた斉藤章佳さんは「男が痴漢になる理由」「「小児性愛」という病 ―それは愛ではない」「盗撮をやめられない男たち」など、ご自身が関わってきた様々な性被害、性加害について発信をされ、これらの問題が深刻だと世に明らかにしてくださっています。私自身、このような性被害の加害者、被害者に合うにつれ、「性加害は犯罪です」という正論をいくら伝えても性犯罪は減らないばかりか、むしろこれからますます増えるのではないかと思っていました。

 罪を犯せば罰を与えられる。これは当然のことと多くの人は理解しています。確かに性加害をした人は罰せられて当然です。しかし、斉藤章佳さんが指摘しているように、夫が痴漢で逮捕されると、「加害者のみならず、加害者家族までが社会から排除され、一家離散、ネット私刑、自死に追い込まれてしまう」という現実があります。

 北欧諸国では、罪を犯した結果刑務所に収監された人について、刑務所出所後の更生や就労支援が徹底しており、「刑を終えた者は再び市民である」とする考え方が一般的なようです。しかし、日本では「いったん社会の道から外れた者は永遠に同じ社会にいてはいけない人間」とされていないでしょうか。すなわち、日本は、制度上は法治国家なのでしょうが、法に基づく罰を受け、その罰をちゃんと全うすればその後は普通に社会に戻っていいとはなっていません。社会的制裁や排除の文化の方が根強いため、法律の解釈に基づく処罰に基づいた対応を受け入れたとしても、実際には日常の社会からは永遠に排除され続けます。すなわち実質的には「法治の理念」が損なわれていると言わざるを得ません。

 「ちょっと待ってください。被害者の感情を考えると、犯人が刑期を終えたからと言ってのうのうと社会で普通の生活をしていることは到底容認できません」という気持ちもよくわかります。それであれば、例えば性犯罪(痴漢、レイプ、盗撮等)の加害者は終身刑という制度を日本独自で作ればいいのではないでしょうか。でも、それができない、そのような議論を避けているからとりあえず「個人が、社会が社会的排除をし続けるしかない」という社会になっています。

 一方で、そもそも盗撮をやめられない男たちも、闇バイトに巻き込まれる男たちも、それこそ死刑が執行された秋葉原事件の犯人も、何故犯罪に手を染めたのでしょうか。彼らはある意味社会との、他者とのつながりが希薄だったため、罪を犯してしまったと考えられるところがあります。犯人たちがなぜ罪を犯したかということに学ぶことなく、犯人を含めた家族をも排除し続ける社会は結果として犯罪の予防につながる真実に迫り、気づき、そして次なる犯罪の予防をあきらめているように思えてなりません。多くの人が人と人のつながりをウザイと考えた結果として犯罪が起こり、その犯人をさらに排除することで結果的に次なる犯罪につながっている。こう書くと「証拠を、エビデンスを示せ」という声が聞こえてきますが、証拠、エビデンスという一見正解に逃げないでください。証明できない事実が多々あることは多くの方々が経験していることです。人間って難しいです。

コンプライアンスという正解

ブログ「正解依存症」の目次