紳也特急 239号

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全国で年間200回以上の講演、HIV/AIDSや泌尿器科の診療、HPからの相談を精力的に行う岩室紳也医師の思いを込めたメールニュース!

性やエイズ教育にとどまらない社会が直面する課題を専門家の立場から鋭く解説。
    Shinya Express (毎月1日発行)
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~今月のテーマ『専門とは?』~

●『専門外かもしれませんが』
○『資格と専門は違う』
●『学位は手段』
○『生きる力』
●『コミュニケーションの専門家は誰?』
○『みんなで育てる専門性、専門家を』

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●専門外かもしれませんが
 最近、相談メールの最後に「専門外だったりしたら返信は大丈夫です」と書いてくる人が増えています。それも結構高校生だったりします。もちろん、返事をしなかったメールはありませんし、あまり詳しく知らないことだったら、詳しい仲間に確認した上で返事をするようにしています。返事に納得してくれたか、くれなかったかはわかりませんが、とりあえず大きなクレームはいまのところありません。
 「岩室先生のご専門は何ですか?」と聞かれるといつも返事が長くなります。専門というよりは取り組んでいることは複数あります。その一部を挙げると「健康なまちづくり」、「HIV/AIDS診療と対策」、「性教育」、「自殺予防」、「薬物依存症のプライマリケア」、「健康づくりの視点からの犯罪予防」でしょうか。このように説明しても、多くの人はこれらに共通点を見いだせないため混乱するだけですが、私から見れば全部つながっています。医師免許という国家資格は持っていて「専門は泌尿器科です」というと多くの人は納得してくれますが、次の瞬間に「どうして泌尿器科の先生が自殺予防に関わっているのですか?」となります。
 そもそも「専門」という枠は誰のためにあるのでしょうか。「専門は?」と聞かれている本人にとってはどうでもいい定義なのでしょうが、その人を活用しようとする人たちにとって、「専門は〇〇です」と言ってもらえると信頼できるか否かの判断材料になるようです。でも、皆さんは専門家に騙されたことはないですか。そこで今月のテーマを「専門とは?」としました。

専門とは?

○資格と専門は違う
 医師免許という資格を持っていても、その人が医学のすべての分野に精通しているとは誰も思いません。しかし、「専門は泌尿器科です」というと何となく泌尿器科領域については信頼してしまいます。一方で医者サイドからみると医学が専門細分化されてきたため、自分たちが信頼される専門家となるべく、各学会は専門医制度を作り、学会認定専門医という資格を設けています。
 しかし、専門医や指導医と認定されたことで、かえって変な自信が植え付けられたのではないかとも思っています。確かに日本泌尿器科学会認定の専門医、指導医は治療のプロ、専門家ですが、病気の予防のプロ、スクリーニングのプロではありません。病気の予防やスクリーニングのプロ、専門家は公衆衛生関係者です。敢えて「公衆衛生医」と言わないのは、医者ではなくても、ちゃんと公衆衛生を学んでいる人であれば予防やスクリーニングについて的確な議論やアドバイスができます。前立腺がんのスクリーニングになっていないPSAが全国的に行われ続けているのも、スクリーニングの専門家の意見を泌尿器科診療の専門医のみならず、多くの医者が無視し続けているからです。

●学位は手段
 よく「医学博士」という肩書を目にすると思います。このような肩書、学位は大学の教授会で承認された論文を書いた人に許されている称号です。岩室はいろいろあって学位は持っていません。しかし、大学の教授になるためには学位というものは必要不可欠な手段ですので、いずれ大学の教授になって欲しい若手には「学位を取れ」と口酸っぱく言っています。大学教授になるといった目的がなくても博士号を取った方はそれなりに頑張った人だと思いますが、学位を持っていることは専門性、専門家の証明にはなりません。学位論文で取り上げた分野について研究し、まとめたというだけです。さらに多くの人が知らないことのようですが、「医学博士」は医者ではなくても取得できる称号です。

○生きる力
 今回、「専門とは?」を取り上げたのは、文部科学省が現行の学習指導要領が目指している「生きる力」を育む教育が、新しい学習指導要領では「社会を生き抜く力」となったのを受け、ふと生きる力や社会を生き抜く力の専門家は誰なのだろうと思ったからです。
 生きる力が言われるようになったとき、公衆衛生の分野では人が健康になるためには生きる力、すなわちIECという考え方が常識でした。すなわちInformation(情報)をどのようにEducation(教育)をしても、増えるのは知識だけです。その知識を活かしつつ生きる力を発揮するためには、他者とのCommunicationが重要だということを理解していた専門家は公衆衛生関係者ということになります。しかし、生きる力を育むために公衆衛生関係者の力を借りようとした学校はあまりありませんでした。
 また、生きる力という目標が出てきた段階ですでにコミュニケーションの危機が始まっていたことを文部科学省関係者は気づいていたのだと思います。しかし、スマホやSNSといったインターネット関連の環境の激変の結果、社会全体のコミュニケーション環境が変わり、残念ながらコミュニケーションが面倒、苦痛になっている人が増えています。

●コミュニケーションの専門家は誰?
 人は当たり前のようにコミュニケーションを行っているつもりでいます。SNSもコミュニケーション手段の一つだと考えている人も多く、敢えて教育されなくてもコミュニケーションはそれなりにとれるようになるものだと思っていないでしょうか。
 横浜市の思春期の部会で知り合ったインターネットの専門家の宮崎豊久さんにコミュニケーションの語源はラテン語のcommunicatioで、その意味は分かちあうこと、共有することだと教わりました。ということはコミュニケーションの専門家は、分かち合いや共有の専門家ということになりますが、皆さんの周りにそのような専門家はいませんよね。インターネットの専門家はあくまでもインターネットという道具を使うという視点での専門家で、決してコミュニケーションの専門家ではありません。コミュニケーションをとるということ、すなわち分かち合うため、共有するためにはお互いのことを認め合う必要があります。それができないと排除や引きこもりになります。コミュニケーションを分かち合いや共有を育むためのものと理解すると、実は私を含め、多くの人はコミュ障なのかもしれません。

○みんなで育てる専門性、専門家を
 先日、日本産婦人科学会が出そうとしている新型出生前検査(母親の血液検査で胎児の病気が診断できる検査)の新たな指針に対して国がストップをかけたことからもわかるように、専門家と称する人たちは決してその一つの課題に関係するすべての分野での専門家ではありません。産婦人科医は診断と治療の専門家ですが、倫理や障害の専門家ではないため、外部がストップをかける必要性がやっと理解されるようになりました。もっとも分かち合ったり、共有したりする力が弱い専門家が聞く耳を持たないというのはよくあることですが。
 では社会を生き抜く力の専門性や専門家はどのように考えればいいのでしょうか。生きる力の時代の反省点としてコミュニケーションについて深く探求しつつ、コミュニケーション能力を具体的に育てる方法についての検証が不十分でした。さらに分かち合いや共有という視点については個人だけの問題ではなく、社会全体のコミュニケーション能力をどう育てるかも問われています。しかし、一人の専門家がこの難題への答えを持っているはずがありません。今こそ改めて社会を生き抜く力を育むために何が必要で何ができるかを、様々な分野の専門家一人一人が謙虚に考え、分かち合い、共有しつつ、いろんな人が集まることで結果として専門性が高まり、課題の解決へとつながるという考え方を広げる必要があるのではないでしょうか。
 岩室はこれまでコミュニケーションや生きる力について考え、発信し続けてきました。これからは社会を生き抜く力を育成する仕組みの一端を担うべく、考え続けつつ、いろんな人とつながり続けたいと思っています。よろしくお願いします。