紳也特急 315号

…………………………………………………………………………………………
■■■■■■■■■■■  紳也特急 vol,315  ■■■■■■■■■■
全国で年間200回以上の講演、HIV/AIDSや泌尿器科の診療、HPからの相談を精力的に行う岩室紳也医師の思いを込めたメールニュース! 性やエイズ教育にとどまらない社会が直面する課題を専門家の立場から鋭く解説。
Shinya Express (毎月1日発行)
…………………………………………………………………………………………
バックナンバーはこちらから
…………………………………………………………………………………………
~今月のテーマ『高齢者になってみて』~

●『生徒の感想』
○『高齢者とは?』
●『高齢者のイメージ』
○『刷り込まれたイメージは変わらない』
●『自分は連続しているが、他者は一部だけを切り取る』
…………………………………………………………………………………………
●生徒の感想

 将来医師志望なのですが、先生の話を聞いて医師としての責任の強さを感じた反面、その社会的意義の大きさを感じて、より医師になりたい思いが強まった。先生のような患者を孤立させない医師になりたいです。(高2男子)

 自分は正解依存症で、失敗することを恐れていたが、今後はなるべく失敗を恐れないようにしたいと思った。(高2男子)

 私自身もあてはまるところがありドキッとしました。最近、何か親に話したいことや聞きたいことがあっても、その後の反応を予想して、めんどう臭くなったり、喧嘩につながることが恐ろしかったりしてやめてしまうことが増えたからです。これからは余計なことは考えずに気楽に話してみようと思います。(高2男子)

 人と人が関わっているといろんなやりとり、反応をいただきます。70歳を機に厚木市立病院での診療を終えるので少しずつ患者さんにそのことを伝えていますが「とても70歳に見えません、まだまだ診療を続けてください」と言われたり、Facebookで自分が70歳になったことをカミングアウトしたおかげで、いろんな方から「古希ですか、とても70歳に見えません」といったお声掛けをいただいたりしています。そのようなやり取りを通して「年齢」について多くの人が持っている思い、正解、先入観について考えさせられました。これは当事者にならないと気づかないことのようなので、自分の頭を整理するために今月のテーマを「高齢者になってみて」としました。

高齢者になってみて

〇高齢者とは?
 そもそも高齢者の定義はどうなっているのかが気になり、いつものようにChatGPTに聞いてみました。

1. 法律上の定義
日本では、65歳以上の人を「高齢者」とするのが一般的。
根拠:「老人福祉法」(1963年)第5条では「老人」は65歳以上。
国勢調査や厚生労働省の統計でも、人口構成を「65歳以上=高齢者」「15~64歳=生産年齢人口」「0~14歳=年少人口」として分類。

2. 医学的・社会的な見方
年齢だけでは実態を十分に表せないという指摘も増えている。
健康・身体機能の多様化し、現在では70代でも活発に活動する人が多く、従来の「高齢者像」とは異なる。
日本老年学会・日本老年医学会(2017年)提言
平均寿命や健康状態の向上を踏まえ、「65~74歳」:准高齢者(pre-old)「75歳以上」:高齢者(old)「90歳以上」:超高齢者(super-old)と分類することを提案。

3. 国際的な定義
WHO(世界保健機関)も基本的には65歳以上を高齢者(elderly)。
ただし発展途上国などでは、60歳以上を基準にする場合も。

 こうやって定義されても当事者としてはピンときません。ところが当事者意識がなかった時はこのような定義をそのまま、何も考えず使っていたように思います。

●高齢者のイメージ
 自分自身が70歳になるまで「高齢者」に抱いていたイメージは何だったのかを改めて考えてみると、ただ「年齢を重ねた人」という側面と、「加齢により思考に偏りがある場合も」と二パターンありました。ここでも「高齢者のイメージ」についてChatGPTに聞いてみました

肯定的イメージ 知恵・経験・穏やかさ・人生の熟達
否定的イメージ 弱者・支援対象・変化への抵抗・社会的負担
背景      福祉制度・メディア報道・家族形態の変化・世代間関係
現代の変化  アクティブシニア・准高齢者の概念・多様化する老いの姿

 改めて「とても70歳に見えません、まだまだ診療を続けてください」や「古希ですか、とても70歳に見えません」と言ってくださる方は「70歳とは○〇〇」といったイメージを持っておられ、そのイメージに岩室紳也が当てはまっているか否かを判断されるのだと思いました。これは最近こだわっている正解依存症にも通じることで、自分なりの正解に当てはまるか否かが反応する際の基準になっているようです。
 では、自分自身はどうだったかというと、それこそ90歳を超えた患者さんでも〇〇さんという見方をしていますし、親戚、友人、同級生も「その人」という見方をしているように思います。一方で自分とのつながり、縁がなかったり薄かったりする人の場合、自分が受け止めたビジュアルな視覚情報でまずはその人を判断し、その後の関係性の中で得られた情報を通して「歳相応」や「若い」とか勝手に判断していました。

○刷り込まれたイメージは変わらない
 先月、日本公衆衛生学会に出て感じたことです。刷り込まれたイメージは変わらない。先月のメルマガに書かせてもらった「ノロウイルスが無症状の人の唾液にもいる」ことを何人もの人に伝えたところ、誰一人としてその事実を知りませんでした。知らないことはいいのですが、「なぜ自分が知らないことを岩室紳也が知っているのか」ということに関心を持ってもらえませんでした(笑)。もちろん論文の話はしたのですが、「なぜその論文にたどり着いたのか、たどり着けたのか」とか、「なぜ日本ではそのことが公衆衛生関係者間で共有されないのか」といったプロセスについての議論にはなかなかなりません。「科学的な情報は論文で確認すること」や「最新情報は雑誌や研修会で身に着けること」といったイメージが刷り込まれていると、「生成AIを駆使することで最新、というか自分が知らなかった、誤解していたことにたどり着ける時代になったこと」を見落としてしまうのだと改めて思いました。
 また、このことは様々な偏見や誤解、差別がなぜ解消されないかということにも通じると思いました。すなわち一度刷り込まれたイメージはよっぽど積極的に学習し、自分の従来の受け止め方を上書きする大変なプロセスが必要なのです。だから「刷り込まれた」ものは容易には消せないのだと改めて思いました。

●自分は連続しているが、他者は一部だけを切り取る
 認知症のスクリーニング検査として広く使われる「長谷川式スケール」の開発者の長谷川和夫先生が、自らが認知症であることを公表した際に次のように述べておられました。「自分がなってわかったことは、認知症は『連続している』ということ。突然別の人間になるわけではなく、自分の中では昨日までの自分とつながっている」と。
 確かに岩室紳也も思春期の時から、医学生になり、医者になり、結婚をし、この度70歳になりましたが、実はすべてが連続していることです。1~3か月に1回、何年にもわたって会っている患者さんにとって岩室紳也はただの主治医であって、○○歳の主治医ではなかったのが、いきなり70歳の主治医と言われて戸惑うのも無理のないことですね。そのため、自分自身が持っている70歳のイメージと、目の前の70歳の岩室紳也のイメージが合致するか否かで「70歳に見えない」という言葉が出てくるのだと思いました。
 個人にとって年齢だけではなく、すべてが連続しているのですが、他者にとっては会っている時だけの存在であり、その時のイメージが客観的判断材料となり、共有できる話題の1つなのです。「わかってもらえない」という思いを持つ若者が多いのですが、それは当たり前のことで、自分の中では連続していることは他者には伝わらず、結局は一部だけを切り取られて判断されてしまうのですね。
 ただ、このことは視点を変えると、自分では考えつかない反応をしていただくことで改めて「年齢」を感じ、いろいろと考えるきっかけになるのだと気づかされました。これからも思ったことを、感じたことをそのままぶつけてください。よろしくお願いします。