〜今月のテーマ『命を感じた時』〜
●『AIDS文化フォーラムで感じたこと』
○『ミータロが死にました』
●『命の大切さを感じたのはいつ?』
○『自分を語ろう』
●『手の中で死んでくれた重み』
○『もっともっと体験させよう』
◆CAIより今月のコラム
「AIDS文化フォーラム in 横浜発表を振り返って」
———————————————————————
AIDS文化フォーラム in 横浜参加者の声
●『AIDS文化フォーラムで感じたこと』
今回はじめてエイズフォーラムに参加しました。そして「H.I.Voice Act」の朗読ワークショップとJIZOUさん(HIVで息子さんを亡くしたお母さん)のお話をうかがいました。私は神奈川県で国語を中学生に教えている教員です。演劇部の顧問でもあります。参加したのには二つわけがあります。
去年初めての3年生を卒業させ、感動し、教員としての喜びを感じていました。ところが、この1学期に卒業させた子供たちが高校生になり、悩みを抱えて中学に戻ってきます。好きな人ができて、性行為をしましたが、知識がなくて不安でいっぱいです。これからどうなるのか。心配です。という内容でした。そのとき、頭から水をかけられたような気がしました。今まで、3年間も一緒にいながら私達教員は「性教育」をきちんとしたことがなかったからです。一番知りたかったことを、大人なのに、教えていなかったのです。チャンスは一杯ありました。性について興味津々のこどもたちに、私達はなんとなくサラリとかわし、見てみぬふりをして逃げつづけてきたのです。
教員のなかには頭の固い人もたくさんいます。「中途半端に性教育なんてしてほしくない」とか「保護者の反響がこわい」とか平気で口にする人がたくさんいます。言外に「子どもを性行為から遠ざけよう、遠ざけよう」とか「性は汚らしいこと、恥ずかしいこと」という響きを感じてきました。そしてそういう方々は実際に3年生でも、150人の学年でも10人以上3学期までには性行為をしていることや、こどもが本当に知りたいのは「どんなことなのか」何も知らない人が多いです。
そんななかで、自分も結局何もできず、結果として子供たちが困惑していることが良く分かりました。そんな自分が恥ずかしく、自分の卒業生はきちんと性教育をしたい。自分の言葉で語り合いたい。〈今年も3年生の担任なので〉という思いがあったことが一つの理由です。
もうひとつの理由は、国語の授業で朗読をなぜ子供たちがあんなに一生懸命するのかが知りたかったからです今授業では一斉朗読に取り組んでいます。15歳の男の子も、汗をかくくらい声を張り上げて、一斉朗読に加わります。そして、班ごとに交替でするときには嬉しそうに、友達と聞きあいます。・・・・・とっても不思議でした。なぜそんなに楽しそうなのか。「朗読のワークショップ」に参加するとなにか、発見できそうな気がして。参加しました。
実際に参加して、たくさんのことを心に感じました。みんなと同じ立場で朗読してみて、自分の声を聞き、相手の声を聞き、ワクワクしました。自分と相手の存在を強く意識して、気持ちがどきどきしました。そして、今までは「遠い存在かな」と漠然とおもっていた感染者の方々が非常に、身近にいるような気がしました。人間的な感情がストレートに伝わって、胸が詰まったり、その人の人生を想像してみたり。自分の生き方を反省してみたり。決して、説教臭い「道徳」の教科書のような内容じゃないのに。素直にすっと内容が心にどんどん入ってきて、自分を反省したり。自分の家族を思ってみたり。
そして、クラスの子どもを連れてくればよかったな。部活の子にも教えてあげればよかったな・・・・と思いました。2学期に実践してみたいと思います。「心の教育」なんてよく言いますが、教え込むものじゃないと思います。今回の私みたいに、自然に感動できるものがあったり、自分を反省できることがあったときに、何かをつかめばそれでいいと思うのです。
実践してみたところでどんな反応があるのかはわかりませんが、「こうなれああなれ」と勝手な思い込みをしてみたり、かっこいい目標は設定したりせず自然に楽しくできれば一番だな、と思っています。
最後に、感染者のかたがたの生き様には心が打たれました。はかり知れない苦しみや、悲しみ、怒りや、葛藤があるだろうに、今を懸命に生きている姿がすごいと思いました。しかも、それを「どうだ。すごいだろう」なんていうことは一切言わず、さらりと文章や、詩にしてしまう生き様に頭が下がります。また、周りのかたがたの生き様にも、あるいは感染者の方以上に大変なこともあるでしょうに。
同じ地球に生まれてきたのに、今まで何も知らず生きてきました。すこしでも、そんなみなさんとつながっていたいと感じました。そういう理由で、投稿させていただきました。
ペンネーム ミミィー (27歳 女 HIV−)
※本文は、H.I.Voice 80号にも掲載予定です。
この感想文を読んだ時、ぜひ「紳也特急」で紹介させてと思わず連絡を取り了解していただけました。ミミィーさん、ありがとうございます。
しかし、性教育って何なのでしょうね。最近は「性教育」という言葉に対してアレルギー反応を起こしている人も少なくありません。性教育は命の大切さを教えることだと言う人もいます。しかし、私にはそのことが今ひとつしっくり来ません。命の大切さを感じられることは人として、生き物としての大前提で、命を大切に思う感性を育てることが性教育だとするのは無理ではないでしょうか。性教育は性とどう向かい合えばいいかを教えてくれることではないのかなと思っていた時に長年一緒にいてくれた飼い猫のミータロが亡くなりました。
今回は「命を感じた時」とさせていただきました。
○『ミータロが死にました』
1989年にわが家に来たミータロが死にました。がん(乳がんだと思われます)になり、一度は手術をしたものの再発し、おなかに大きな腫瘍を抱えたまま14年4ヶ月の命を閉じました。平成15年8月29日午前5時25分でした。
私は医者になって何人看取ってきたかわかりません。そして一人一人を見送っていく経験を通して「死を見せてもらうことこそ命の大切さを知る絶好の機会」と言い続けてきました。少年が人の命を奪った事件の後にある教育長が「学校では命の大切さを教えているのですが・・・」と言い訳にもならないことを言っているのを聞いて、むしろこんな大人に「命の大切さ」という言葉を口にされても感動をもって「命」を受け止められないだろうと思っていました。では、どのような体験が人に「命」を感じさせてくれるのでしょうか。
●『命の大切さを感じたのはいつ?』
常々自分で感動できないことは人に上手に伝えられないと思っています。「命の大切さ」という「言葉」だけを言い続けている人、「正論」(のつもりのこと)を言い切れる人って本当に幸せだと思います。しかし、その人に「あなたはいつ命の大切さを感じましたか」と聞いてみてください。どのような解答が返ってくるでしょうか。講演会などで「あなたはいつ命の大切さを感じましたか」と投げかけると聞かれた人はそれぞれ一生懸命考え、ある人は「子供を生んだ時」。別の人は「友達が死んで感じました」。さらに「身内が死んで」と「死の体験」を口にする人が多いようです。確かに人が生まれるのを、死ぬのを体験できなければ命の大切さがわからないのかもしれません。
○『自分を語ろう』
私は小学校の6年間はアフリカのケニヤにいました。その頃、人の死で忘れられないのはRobert F. Kennedyが暗殺されたことでした。彼がケニヤに来た時に小学生だった私たちは彼を出迎えに空港に行き、間近でこの人が有名なJohn F.Kennedy の弟なんだと感動したすぐ後に暗殺されショックを受けました。しかしの当時は身近な人の死を経験したことはなく、自分の周りで死と言えばペットの死くらいでした。ペットの死で忘れられないのはドーベルマンの子犬が飼ってすぐに毒蛇に噛まれて死んだことです。かわいがっていた子犬が死に、昨日まで元気だった命を庭の土の中に埋葬しなければならないという理不尽さが本当に悲しかったのをよく覚えています。
医学部に入った後、亡くなった方のご遺体を解剖させていただいたときに、少し前までは生きておられたということを考えるとすごくショックでした。さらに研修医になって30歳の新婚末期がんの患者、喘息で亡くなったお子さん、老衰、肺がん、膀胱がん、腎臓がん、精巣腫瘍、エイズ、等々で限りなく多くの命が消えていくのを見せていただき、一つの命が消えると多くの人が悲しむんだ、命って大事だなといつの間にか思っていました。
身内の死も体験しました。父方、母方の祖父母をはじめ伯父、伯母たちが亡くなるのも経験しましたが、葬式に出ただけで生から死へのプロセスを経験することはできませんでした。もっとも身近な死は私の父でした。父は肝臓がんになり家で亡くなりました。しかし日頃の行いが悪いのか、寝る前に爪を切っていたのか、残念ながら死に目には立ち会えませんでしたが、これらの経験を通して、命の大切さを実感するには実際に人の死を見せてもらうことが大事だと思っています。
●『手の中で死んでくれた重み』
ミータロはそんな私に新たな気付きを与えてくれました。彼女は命が消える瞬間まで私の手の中にいて、自分の手の中で息絶えて、命が消えるという直接的な経験をさせてくれました。
医者は血圧、心電図、尿量、そして症状などを総合的に判断して「あとどれくらいです」と話し、家族が間に合うように努力します。人は亡くなる直前に顎で呼吸するようになる(下顎呼吸)ため、医者は下顎呼吸を見ると「厳しい状況になりました」と話します。そして間に合った人にはそれほど深く考えずに「手を握ってあげてくださいね」と声をかけていました。それが医者の仕事、命が消え行くところを大切にし、受け止めてもらうために医者がしなければならいことと先輩の医者や看護師さんたちを見て自然とそうしていました。
臨終間際は猫もまったく同じでした。血圧を測ることも、尿量も細かく計ることはしませんでした。下顎呼吸をしはじめた時は「いよいよだね」と感じ、対光反射で「ご臨終です」と言うことなく命を終えました。ミータロが私と家内の手の中で死んだときに、自分の手の中で一つの命が消えていくという感覚の重さ、大切さをはじめて感じたように思いました。
必死で心臓マッサージをしてもそのまま亡くなった方。一生懸命治療したのに亡くなったお子さん。医者にとって一人一人の死は重いのですが、人が死ぬ最後の瞬間を自分の手の中で抱えたことがなかったのです。こんなに死に直面している私でさえもそうでした。
○『もっともっと体験させよう』
確かに今の子供たちは様々な情報を持ち、いろんな経験をしています。しかし「命」に関してはほとんどといって体験がないのではないでしょうか。命が亡くなるというのは辛い体験ですがこれを経験することなく、言葉だけで「命の大切さ」をいくら言っても無駄のように思います。昔は否が応でも「命の大切さ」を体感させられてきたのを忘れてはいないでしょうか。家族も多く、何世代も同居していれば多くの死を見せてもらうチャンスがありました。今ほど衛生状態がよくなく、医療も進歩していない時代には若い人も子供も次々と死んでいったはずです。戦争では周りの多くの人が死んでいきました。そのような体験を持たない若い世代にもっと「死」を体験させる必要があるのではないでしょうか。
◆CAIより今月のコラム
「10代女性を取り巻く性情報を振り返って」
八月初め、やっとこさで取り組んだ「10代の女性を取り巻く性情報」を横浜文化フォーラムで発表した。
思い返せばちょうど一年前、母に勧められフラッと立ち寄った文化フォーラムの講座の一つ、CAIの「若者を取り巻く性情報」に参加したのが私にとって始めてのCAIとの出会いだった。
それを機にメンバーとして活動に参加し、一年後、女性という切り口から今回は迫った。
性体験の低年齢化・中絶・性感染症の問題だけに留まらず、より若い女性の商品化が進む中、社会やマスコミをただ批判するだけでなく、いかにすれば自分も責任を持ち、楽しみながら性情報と付き合っていけるかをを当事者として考えてみた。
一番のポイントは、会場からも多く声が上がったが、処理しきれないほどの情報が取り巻く今、老若男女を問わず、正しい情報かどうかを読み解く「メディアリテラシー」なのではと痛感した。
発表後の会場の反応はなかなか良かったが、これからのもっと進めなくてはならない課題も見えて来た。自分のセクシャリティを見つめ直したいい機会だったのと同時に、エロ本の読み過ぎで感覚が麻痺してきた10代最後の夏だった。
O.S