紳也特急 53号

〜今月のテーマ『無の時間』〜

●『新年のご挨拶』
○『読者からのメール』
●『無の意味するところ』
○『無の時間を奪う現代社会』
●『無を楽しむ』
○『「無の時間」と想像力』
●『輸血でのHIV感染が現実に』

◆CAIより今月のコラム
「できちゃった結婚」

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●『新年のご挨拶』
 あけましておめでとうございます。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私、岩室紳也は転職に伴い4月からはほとんど休日のない9ヶ月でした。その間に溜まったストレスを野沢温泉で洗い流し、スキー場でぼーっとした年末を過ごし、今日は自宅で寝正月です。医者になって約23年、何をやってきたのかと自問自答しながら、新しい仕事を始めました。結果的に残りの人生は自分の経験を少し形と声にして、近年の医学の中でいままであまり重視されてこなかった「公衆衛生」について少しでも伝えられたら思っている自分に気付かせていただきました。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

○『読者からのメール』
 最近岩室先生が「寝た子を起こそう健やかに」とおっしゃっているので私もみんなにそう教えています。勉強やスポーツには駆り立てて早く起きろと急がせるのに、性に関しては寝ていて欲しいと思うのは異常です。
 わたしは、最近こどもたちが情報に流される理由の一つに自分で考える時間が保障されていない事も原因の一つではないかと思っています。だからお母さん達には子どもにも怠けたりゴロゴロする権利があると話しています。特に思春期の自分作りをする時に『自分で考える』時間が無さすぎます。
 私は子育てをするときに、とにかく暇という時間を意識してきました。誰にも鑑賞されないひとりぼっちの時間を保障する。(1)頭の中の宇宙で遊べる。(2)孤独に慣れることで人と吊るんで行動しなくても済む。という利点があると思ったからです。
 おかげでちょっと個性的な考えの子どもたち(もう大人ですが)が育ちました。自分の時間を大切にするので人と吊るまないし、人と意見が違っても腹を立てたり、誰かに無理に合わせようとしたりしません。それでも孤立してしまうということもないようで自分流を貫いています。親の私よりよっぽど大人っぽいので時々、私がお説教されています。
 子どもが暇になると変なことばかり考える。部活や塾でくたくたになるまで体力を使わせないと非行に走ると本気で思っている親が多いのに驚きます。どうしてこんなに我が子を信じてやらない親がいるのかわかりません。
 この間は弁護士の方が「法律で子どもには失敗する権利が保障されています。」と言っていました。命に関わる失敗は困るけれど、失敗する権利を保障してあげたいと思って聞いていました。

 このメールを読ませていただき「そうだよ」と思わず頷いていました。この9ヶ月の自分の動き方、仕事の仕方は充実しているものの無の時間がありませんでした。貧乏暇なし、と言いながら仕事があるのはありがたいこと。忙しいのはこの時代の中で幸せなこと、と自分に言い聞かせてきました。しかし、このメールであらためて無の時間ってすごく大事だと実感させられたので、今月のテーマは「無の時間」とさせていただきました。

無の時間

●『無の意味するところ』
 昔の子どもと今の子どもの違いは何かと聞かれると、大人たちは「あらゆる面で情報量が違う」と言います。確かに性に関する情報量だけを見ても昔と今では情報の量は圧倒的に違います。性に限らず情報量が違うことは昭和30年生まれの私と今の子どもたちにどのような違いを生んだでしょうか。
 小学校6年間、私はアフリカのケニアで育ちました。宿題がない。家に帰ってもテレビは夕方の5時に始まり、それも白黒。子供向け番組も時間帯が限られていました。結果的にはそのおかげで(相手から自分に向かっての)一方通行の情報に触れる機会が少なく、余った時間をつぶしてくれたのは犬やサルのブッシュベビー、それとも庭にいるハリネズミ? こんな環境の中で育つと、ただとボーっとしていることが多く、暇に任せて確かにいろんなことを夢想していたように思います。そんな無の時間の中でいろんなことを空想し、夢を膨らませ、連想する力、考える力を自然と獲得していたように思います。

○『無の時間を奪う現代社会』
 今、私は毎朝、家を出て駅まで15分間歩きます。そこから行く先は日々変わっているのですが、駅までは毎日のように変わらぬ風景を見ているつもりでした。しかし、実は毎日少しずつ違う風景を目の当たりにして、その地域と会話をしていたんですね。今日は床屋のハナちゃん(犬)は返事をしなかった。いつも会う高校の生徒がいた(買い食いばかりじゃだめだよ)。松屋で朝食を食べている人が多い、朝マックしている人が5人いた(朝食を食べないよりマシ)。
こんなことをぼーっと考えながら繰り返していた時間は父が残した形見の携帯ラジオで一変しました。
 車通勤が多かった頃はよく、当たり前のように車の中でラジオを聞いていました。運転に集中しているといっても比較的問題なく交通が流れている時は、かえってラジオ程度の一方通行の情報が入ってきた方が眠くならずにすみます。朝の時間で好きだったのは「高島ヒデタケのおはよう中年探偵団」で、結構自分が話をする時に役に立つ情報ももらえるし、さらには投稿して1万円もらったこともありました。同じような感覚で携帯ラジオって駅までの暇つぶしに、と使い始めた頃は携帯ラジオもいいなと思っていました。特に満員電車で本などが読めない時はラジオがあると時間に無駄がないと屁理屈もつけていました。こういうことってエスカレートするもので、新幹線や飛行機に乗っている時間に音楽を聴こうとヘッドホンを買ってパソコンにつないで音楽を聞くようになったある日、私の周りに無の時間がなくなっていることに気付かされました。
 確かに無というのは何となく寂しいものです。そして人はそれを避けようとしいろんな人と、声で、音で、情報で繋がろうとしていますが本当にそれでいいのでしょうか。ラジオやパソコンから流れてくる「音」は何となく人とつながっているという安心感を与えてくれます。しかし、そのような一方通行の情報は決してコミュニケーションではないですよね。私の時間がパソコンだけではなく、音にまで占領されていく一方で何かが足らなくなっていました。「無の時間」が足らなくなっていたのです。

●『無を楽しむ』
 無の中で時間を過ごすことの大切さに気付いて自分の生活を振り返ってみると、いま、自分の生活の中で無を感じられるのはスキーをしている時間だけかもしれません。私にとってのスキーとは別に上達するためにするものでもなく、単に落ちていく快感を、そして何も考えていない時間を過ごすためにしているだけです。行くスキー場も野沢温泉をベースに、北海道はサホロかニセコで、特に浮気はしません。それはどちらも自分にとって無の時間を長く与えてくれるロングコースがあることと、いろんなスキー場に行くことが目的ではなく、そこでの無の時間を楽しみたいからのようです。家にいるとメールは入る、原稿も溜まっている。とても無になれません。しかし、家にいないことで無の時間が得られます。
 このお正月に知り合いがいま山ごもりをしています。お互いに無の話をしたわけではないのですが、年末に「これから山ごもりしてきます」とメールが入りました。その人も無を求めているんでしょうね。スキーや夏山ハイキングというのは私にとって無とともに生きる時間、ストレスと決別できる時間のように思います。お坊さんが修行で山ごもりをするのも、無の境地になって何か新しい発見をするためなのでしょうか。

○『「無の時間」と想像力』
 いま、人から無の時間を奪っているのは、テレビ、ラジオ、携帯電話、テレビゲーム、インターネット、といった様々な情報たちです。一見便利で快適と思われている道具が、実は情報の嵐となってわれわれ人間にとって大切な無の時間を奪っています。携帯電話は時には暴力的に、有無を言わせず無の時間を突然ぶち壊します。テレビゲームもインターネットも暇つぶしになりますが、逆に無の時間つぶしでもあるんですね。その無の時間がなくなるとどのようなことがおこるでしょうか。
 最近の若者は「先を読んだ行動ができない」と思いませんか。例えば「セックスの結果何が起こる」と聞けば妊娠や性感染症と答えるでしょう。さらにその予防方法は、と聞けば「コンドームやピルと答えるでしょう。しかし、いざ自分の問題となった時にセックス→妊娠→コンドームというストーリーを自分の中で行動に結びつけることができません。それは自分の中で自分の行動を夢想し、振り返り、そして「やっぱりコンドームをつけないとやばいよな」という独り言芝居をしていないからではないでしょうか。テレビゲームも一見人に先の状況を考えさせているようですが、どちらかというと考えることなく反射的に対応し、時間をつぶしているだけではないでしょうか。これらの現代文明の利器に翻弄されていると考える力が育たないと思いませんか。
 先が読めない理由はいろいろあるのでしょうが、無の時間を持っていないこととの関連を考えておく必要があると思います。「ぼーっとしていないで」とこどもを叱るのではなく、「ぼーっとしながら何を考えていたの」と聞いて欲しいものです。本当にぼーっとしていただけならもっと無の時間が必要かもしれません。無の時間がたっぷりあれば、いつかは時間を持て余し、空想にふけり、そして想像力が養われていくのではないでしょうか。逆に人間は無の時間を失うことで想像力、考える力を失っていくように思います。
 今年は「無」の時間をできるだけ多く持ちたいと思っています。さてできるかどうか・・・・・

●『輸血でのHIV感染が現実に』
 やっぱり。でも・・・・・。献血からの輸血でのHIV感染が現実のものになりました。
それでも対策を根本的に変えられない日本って何なのでしょうね。みんなで考えればいろんなアイディアが出るはずです。
http://homepage2.nifty.com/iwamuro/hivyuketu.htm
上記以外に、NATを50本単位から20本単位にするという前に、輸血を受ける人が時間的な余裕があればNATを個人レベルで自己負担でやれるようにした方が早いと思うのですが、そのような現実的対応も提言されていません。結局、対策を考えている人自身にとって輸血でのHIV感染は他人事意識なのでしょうね・・・・・・

◆CAIより今月のコラム

「できちゃった結婚」

ぼくの恋が、またひとつ終わりました。。。

広末涼子さん、ご結婚おめでとう。
ファンとしては複雑な心境ですが、祝福しています。

2003年もたくさんの有名人がご結婚されました。
窪塚洋介さん、ともさかりえさん、小日向しえさん、東ちづるさん、秋本奈緒
美さん、磯野貴理子さん、奥菜恵さん、桜井幸子さん。
まだまだたくさんいらっしゃいますが暗い話題が多い中で明るい話題を提供していただきました。みなさん本当におめでとうございます。

広末涼子さんは、いわゆる「できちゃった結婚」ということで話題になりました。ちょっと前ならとんでもないことの様に言われましたが、世間の反応は変わってきているようです。

結婚していなくても愛し合うカップルはセックスをするでしょう。
結婚をしても愛し合っていないカップルはセックスをしないようです。

いろんな考え方があると思いますが婚姻とセックスは関係がないように思います。その昔「上野動物園のパンダが結婚」というニュースがありましたが、事実はパンダがセックスをして“できちゃった”ということであって、笹の葉に判をついて台東区役所に提出した、ということではなかったようです。(愛し合っていたかどうかは不明ですが)

離婚された杉本彩さんは「結婚は世間を納得させるためのシステム」と記者会見でコメントされました。ぼくは、なるほど結婚とはそういうことだったのかと目からウロコが100枚くらい落ちた気がします。“毒まんじゅう”よりも名言だと思います。

祝福される“できちゃった”と、そうでない“できちゃった”。
世間を納得させることができたなら、祝福されるようです。
どんな“できちゃった”でも、生まれてくる子供は祝福されたほうが絶対にいい。世間を納得させられないうちは愛し合っていても“できちゃわない”ようにコントロールすることに決めました。

そして加護ちゃんが成人するまでには“年商○十億の男”になっていたいと思います(笑)
そうなるためにも、2004年もHappy Truckをどうぞご贔屓に。。。
http://www.happytruck.jp/

                            M.M