〜今月のテーマ『宗教と性』〜
●『いのち』
○『カトリックとエイズ』
●『受容と苦悩を共に』
○『宗教と性は必然のつながり』
●『割礼はつなげる、見分ける手段?』
○『かかりつけ○○を持とう』
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●『いのち』
5月2日、私の母が急逝しました。正月に難病といわれる病気(Churg-Strauss症候群)と診断されたものの5年生存率は75%と言われ、それなら後数年は生きられるのかなと安易に思っていました。しかし、病状は思った以上に進み、合併症を併発し、気がついたらゴールデンウィーク中に葬式を出していました。母は私が忙しいことに配慮してか、原稿が遅れていることを除けば講演や診療等でご迷惑をおかけすることもない時期に死んでしまいました。父の7回忌を3月にしたばかりでしたが、いのちってこんなものなのですね。ただ、C型肝炎から肝臓がんを併発した父の時のような時間的余裕もなかったため、未だにどことなく狐につままれた気分です。
医者という仕事柄、多くのいのちを見送り、そしていのちの尊さというのも何度となく感じさせていただきました。しかし、やはり身近な「いのち」というのは重い存在だと改めて感じています。大げさに言えば「岩室紳也」という「いのち」を誕生させた「いのち」が消えてしまった。自分の源となった「いのち」が全てなくなってしまったのです。よく、「親を大切にしなさい」とか「親孝行したい時に親はなし」と言いますが、親というのは再現性のない、代わりがきかない存在なのですね。
その母の葬式の際に岩室家の墓がある寺は正式に臨済宗大徳寺塔頭総見院で、家紋が丸木瓜だとはじめて意識しました。皆さんは自分の家の宗教や家紋というのをご存知ですか。私は家紋なんて考えたこともないのに、いざ葬式を出すとなると一応紋付提灯を掲げることになるので必要でした。いろんな人に聞いても「岩室家」をきちんと知る人がいない。父の時は母が全部やっていたのですが、こんなに早く自分の役割が発生するとは露知らず、のんきに構えていたためばちが当たりました。性の話では「いつも自分が当事者になったつもりで考えましょう」と言っているのに、やはり自分のこととなるとなかなかうまく行かないものですね。
そんなばたばたとしている中で、何かと宗教と関わることが多く、宗教の意味を何となく考えさせられたので今月のテーマを「宗教と性」としてみました。
『宗教と性』
○『カトリックとエイズ』
つい先日、「カトリックとエイズ」という勉強会に参加する機会を得ました。カトリックと言えばコンドームは絶対禁止です。男性同性愛も認めていません。そんな中で想像していた話は「コンドームを使わないで一対一の関係性を守っていればHIV感染を心配することはありません。」とか、「検査を受けなければHIVに感染しているか否かはわかりません。検査を受けてセックスをすればHIV感染は広がりません。」といったどちらかというと常識的(?)な内容かと思っていました。カトリック教徒がHIVに感染することもあるでしょうし、何より世界中でHIV感染症が蔓延している状況をカトリック教会としても見て見ぬふりをするわけにもいかない。でも予防のためにはコンドームと声高に言えない。こんな苦悩を抱えておられるカトリックの偉い神父さんが「カトリックとエイズ」について話をされました。正直ビックリしたのが、宗教、カトリックは「かくあるべし」ということを押し付けるのかと思っていたらそんな雰囲気はまったくありませんでした。逃げの話ではなく、むしろカトリックとエイズの関係についてもっと前向きに考えている話がいくつも出てきました。
●『受容と苦悩を共に』
それどころか、同性愛の方でカトリックの神父をされていた方の話が紹介されました。結果的にその方はカトリック教会から出られたようですが、その経緯を含め紹介されていた神父さんの苦悩(といったら失礼になるかもしれません)が排他ではなく、受容しつつ教えに従う、教えを守ることの難しさを苦悩している実態を見せていただいたように思います。例えカトリックの洗礼を受けているゲイの方がHIV(+)という事実が明らかになってもその方を否定しない、その方と共にこれからのことを考えようとする姿勢の背骨(バックボーン)に宗教が存在する力強さを感じました。
もちろん神父さんにもいろんな人がいらっしゃるでしょうし、カトリックにもいろんな信者さんがいるのでしょうが、いろんな可能性を常に考えて対応しようとしている柔軟さと強さが長く続いてきた(もってきた)宗教の強みなのでしょうか。
○『宗教と性は必然のつながり』
避妊禁止、中絶禁止、コンドーム禁止、同性愛者禁止、結婚前はセックス禁止等々、セックスの詳細について規定している宗教が少なくありません。どうして宗教はこれだけ性のことを規定するのか、規定することは変だと思っていたのですが、宗教が性についていろいろ言うのはむしろ必然だったのですね。性ほど多様な側面を持った行為に対して「何でもOK」とするとかえって混乱が生じることを宗教のリーダーたちは知っていたのでしょう。
●『割礼はつなげる、見分ける手段?』
宗教的な儀式として男の子の割礼というのがあります。小さいときに包皮を切除することです。最近も外国籍のご夫婦やご夫婦の一方(特にご主人)が外国の方の場合に割礼をしてくださいと私のところに来ることが少なくありません。割礼をする、しないについてはいろんな意見があると思いますが、切りすぎると亀頭部が常時露出した状態になりますので、私は必ず「将来、この男の子はどこで暮らしますか」と聞くようにしています。アドバイスとしては「もし日本で暮らすのであれば、かえって手術をすることで他の子と違うおちんちんになることで悩む場合も考えられます。そこまで承知の上で親御さんが希望されるのであれば考えましょう。でも「その前に『日本式(岩室式?)むき方』でむけるようにしましょう」というと、むけるようになったらこれでOKという人が少なくありません。さらに今年のアメリカの泌尿器科学会に行ってきた先生によると、あちらでは割礼を一般医(家庭医)が行っているので亀頭部まで切ってしまうという問題が報告されていたとのことです。
話が横道にそれましたが、結局、「性」のあり方で人を縛る、束ねるのは一番だれもが逃げられない側面についてのことだけに一度一定のルールができるとそれを貫き通さないとせっかく信じていろんなつらい思いをしてきたのに裏切られた感じになるのでしょうか。
○『かかりつけ○○を持とう』
宗教活動をクラブ活動のようなものと言った人がいて、言い得て妙だと思いました。クラブ活動は一定の目的に向かってみんなの気持ちを集約する、結束するところがあります。そして何よりクラブ活動というからには比較的気軽に集まれる地域密着型のものが理想です。その意味で、神社、寺院、教会、モスク、といった地域密着型の集合体があることは個々人にとっても重要なことなのでしょう。しかし、日本ではむしろ住民は宗教から離れていっているようです。
鳥取県の片山知事はファミリードクター(かかりつけ医)がいるように、かかりつけ議員(といったかは定かではないですが、自分の意見を気楽に話せる議員)を持ってくださいという話をしていました。その通りですよね。今回、喪主という立場上、通夜と葬式でお経を上げてくださったお坊さんといろんな話をさせてもらいました。お坊さんといえば説教をする人、えらそうな話をする人かと思っていたら、決してそうではなく、むしろ日々の悩みや相談に乗ってくれる地元のカウンセラーなのかと思いました。かかりつけのお坊さんも必要ではないでしょうか。
私の友人にはお坊さんになった人はいませんが、よく後継ぎがいないからとお婿さんが仏門に入ると言う話を聞きますよね。そして「修行」を経て立派なお坊さんになっていかれます。お坊さんや神父さんの話を聞いていて、彼らこそ地元でもっと活躍してもらいたい、活用したい存在だと思いました。今度納骨で大徳寺に行ったらお坊さんといろんな話をしてみたいと思っています。
追伸:北海道の保健所長をされていて、エイズ対策に熱心に取り組んでおられた吉田浩二先生は今、教会の牧師さんをされているはずです。いちどお尋ねしたいと思いました。どなたか近況をご存知の方、ご一報ください。