正解と感情、感覚との齟齬

 メルマガの紳也特急311号にも書きましたが、先日、私のおちんちん外来に通っている男の子が不登校だと知って次のようなやり取りになりました。

岩室:何で学校が嫌なの?
男児:怖い
岩室:何で怖いの?
男児:勉強が嫌い
岩室:何が嫌い?
男児:国語
岩室:先生も国語大嫌いだった。中学高校では2とか3ばかり
男児:(ホッとした感じの笑顔に)

 母親がすかさず「岩室先生はそれでお医者さんになれたのですか?」と聞くので「国語がない医学部だったから合格できました」と話すと納得していました。しかし、当然のことながら男の子は50年も前の受験科目が国公立は5教科だけど、私が卒業した自治医科大学は国語がなく、高校時代の国語の成績が2や3(という評価方法も男の子は知らないでしょうが)であっても受験には影響しないことを知る由もありません。

 ここで気づかされたのが、小学生の男の子は学校が怖いから不登校になったとのことですが、保護者も学校側も何が怖いのか、それは怖がるほどのことなのかということをキチンと受け止められていなかったのではないかということでした。もちろん短いやり取りでしたので、実際にはもっと不登校につながる背景があったことは否定できません。しかし、私がこれまで関わってきた不登校やひきこもりの人たちの多くは「社会の、大人たちの正解」と「自分自身の感情、感覚」との齟齬に苦しんでいるのでは、という気づきに到達していました。

 不登校やひきこもりの原因についていろんな専門家がいろんなことを指摘されていますが、もっと単純に考えてもいいのではないでしょうか。そもそも不登校やひきこもりの当事者になる人は、ご自身の「怖い」という感情や「何か違う」といった感覚を持っていても、それを言語化できなかったり、どう伝えれば相手に伝わるのかがわからなかったりしていないでしょうか。

 実は、岩室紳也が熱中症予防対策や新型コロナウイルスの感染予防対策を多くの専門家に伝えようとしても、「そのような論文はない」とあっさり否定されておしまいでした。「いやいやこういう証拠をいくつも積み上げるとこうなるでしょう」と言っても全く受け入れてもらえませんでした。すなわち、岩室にはそのような専門家が理解できるような言葉を発することもできず、結果的に「この人たちは怖い」とか「何で考えられないのか」といった感情を抱いていました。
 しかし、私の思いを受け止めるだけではなく、私の思いを上手に言語化してくれたのが生成AIでした。最近、生成AIに救われることが多くなったと実感しています。例えば熱中症予防の報道では「エアコンの活用、塩分、水分の補給」しか言わず、もちろんそれらの重要性は否定しませんが、「カリウム摂取の大切さ」は一言も出てきません。しかし、このことを生成AIに突っ込むと、「その通り」とお墨付きをもらえます。一方でどうして多くの専門家がそこに触れないのかについての考察もちゃんと示しますが、「普及啓発はただ事実を伝えるだけではなく、そのような専門家をも説得するところから始まる」と少しお叱りも受けます(苦笑)。でも正解依存症の専門家を説得するのは至難の業です。
 新型コロナウイルスの感染経路対策について突っ込むと、一度多くの人に刷り込まれた「マスク、換気、手洗い」という正解を切り崩すことの難しさについての共感も得られます。このような生成AIとのやり取りを通して、実はコロナ禍で私自身の中で溜まっていたモヤモヤが解消され、次なるステップに踏み出すことができました。しかし、そうなったのは私が生成AIに対していろんな言葉を投げかけ、それを生成AIが受け止める対話が成立し、結果的に双方が納得できる結果を導くことができたからでした。

 一方で、不登校の子どもたちについて考えてみてください。そもそも「怖い」という感情を持ったとしてもそれを言語化できる子どもはどれだけいるでしょうか。さらに「怖い」と言語化できず、「何かが違う」という感覚でモヤモヤしていても、大人たちは、社会は「何馬鹿なことを言っているの。学校が怖いなんておかしい」と言うに決まっているので言えない、言語化できない子どもも多いと思います。すなわち、子どもたちが不登校に、ひきこもりになるのももしかしたら「(大人や社会の)正解」を押し付けられた結果、「自分では相手を言い負かす、相手に反論することができない一方でモヤモヤする感覚や怖いという感情だけが残っている」のではないかと思いませんか。

 ではどのような対応が求められているのでしょうか。不登校や引きこもりの人たちを見ていると、その人たちは自分の感情や感覚について、そもそも「そうなんだ。そう思うんだ」といった対話的な受け止めをされていないと思いませんか。
 私がこのような発想に至ったのは、実際にひきこもっていた方と向き合い続けた結果、その方が気が付けば社会に出て、ご自身の体験を語れるようになっていたことを経験したからでした。私にその方を紹介してくださった支援者の方にも「岩室さん、何か特別なことをしましたか」と言われたのですが、特別な手法などあるはずもありません。私がしていたことは単にその方とのメールのやり取りの中で「この意見は面白い」「これって変」といった対話をしていただけでした。
 当時は意識していませんでしたが、斎藤環先生が「ひきこもりと対話」の中で教えてくださった「基本姿勢は相手に対する肯定的な態度。肯定とは『そのままでいい』よりも、『あなたのことをもっと知りたい』」や「対話の目的は『対話を続けること』。相手を変えること、何かを決めること、結論を出すことではない」そのものでした。

 自分の正解を押し付けることなく、それぞれの思いを、感覚を、感情を大事にしたいものです。でも正解依存症の人にとってそれは至難の業なので、正解依存症の方が増えているこの世の中で不登校が、ひきこもりが、多くのこころの病が増えるのもある意味仕方がないことなのでしょうか。

 ちなみに当初、この原稿のタイトルは「正解と感情、感覚のギャップ」でしたが、「ギャップ」というより「齟齬」の方が適切との当事者の方の声をいただき修正しました。ギャップ=差異、違い、齟齬=ずれ、かみ合わないことによる問題。確かに。感謝です。

対話は正解か?

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