正解依存症や対話の話をある講演会でしたところ、「正解とは何か?」「議論は対話に入らないのか?」「対話は正解なのか?」という質問をいただきました。こういう指摘があると改めて自分が発信している内容を振り返りつつ深められるので本当に感謝です。
私が正解依存症の定義で示しているように、「自分なりの正解」というのは万人が考える「正解」である必要はなく、結果としてその人が「正解」と思ったことを言っています。もちろんそれが社会的に多くの人が「正解」と思っていることの場合もあるでしょうし、ごく一部の人が、あるいはそう考えている本人だけが「正解」と思っている場合もあるでしょう。
ただ、この質問を受けて考えさせられたのが、「正解」という言葉が持つ重みでした。広辞苑で調べると「正解」とは「正しい解釈。正しい解答。結果として、よい選択であること」とのことでした。「正しい」「よい選択」と言われると人は安堵するだけではなく、思考停止になるリスクがあります。「コロナ予防にマスク」という正解を手に入れた方の中には未だに場面を、状況を、環境を考えることなくマスクをされている方が少なくありません。そう指摘すると「個人の選択です」とこれまた正解で反論されますので難しいです。
一方で、斎藤環先生が指摘されているように「対話(dialogue)とは、面と向かって、声を出して、言葉を交わすこと。思春期問題の多くは対話の不足や欠如からこじれていく」と考え、対話の大切さを強調しているのですが「対話は正解か?」と聞かれた時に一瞬戸惑っていました。確かに対話が苦手な、あるいはできない人もいます。必ずしなければならない正解なのか否かと考えてしまいました。
結論は「対話は手段であり、手段は正解にはなり得ない」でした。対話について考える際に、斎藤環先生が指摘されている独り言(monologue)を合わせて考える必要があります。
議論、説得、正論、叱咤激励は「対話」ではなく「独り言」である。独り言の積み重ねが、しばしば事態をこじらせる。
議論の目的は、解決策や結論を導きだすことですが、対話の目的は、解決策や結論を出すこととは限りません。
対話の目的は「対話を続けること」。相手を変えること、何かを決めること、結論を出すことではない。
「岩室は対話を続けることを正解と思っていないか」という指摘も考えられます。しかし、対話はあくまでも、対話を通して、結果として相互理解や信頼の構築が得られたり、共に考え続けるための手段ではないでしょうか。
つづく