紳也特急 197号

~今月のテーマ『大人の定義』~

○『新年、明けましておめでとうございます。』
●『宿題への親の答え』
○『大人とは?』
●『死を考えさせる大人』
○『死を見せた大人』
●『言葉を増やすきっかけを与える大人』
○『大人が子どもになる(?)SNS』

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○『新年、明けましておめでとうございます。』
今年も、このメルマガを含め、できることを、一つずつ積み上げて行けたらと思っています。

●『宿題への親の答え』
 生徒さんや学生さんに講演をする時、「保護者の方に、保護者自身が亡くなった時にどのような葬式を出して欲しいかを聞いてみてください」という宿題を出しています。皆さんだったらどう答えますか。

・葬式はしなくていいからお墓に入れるだけでいいよ。
・一般的なお葬式でいい。
・死んだあとは葬式の後、納骨するのではなく、散骨でいい。
・親に聞いてみたところ、そんなの考えてないよ、と言われました。やはり人はいつ死ぬかわからないので、若いうちからしっかり考え、もしものときのために、ノートに書いとくとか、周りの人に言っておくとかするべきだと思います。自分も自分が死んだ後のことを今のうちから考えられるように頑張りたいです。
・するなら家族葬で良いと言いました。それ程今の世界、人の死は昔より軽くなってしまったのですか。死の重さは変わらないのに時代の変化がものをいうのだと感じました。人の死と近くにいる先生の講演は一つひとつ記憶に残るものでした。

 このような感想を読ませてもらいながら、このメルマガを書いていたら、Facebookのメッセンジャーが鳴り、次のようなメッセージが入っていました。
 「良いお年を召して、日本語知らないのかな?」
 ちょうど「大人とは?」といったことを考えていた時だったので、今月の、2016年最初のテーマを「大人の定義」としました。

『大人の定義』

○『大人とは?』
 広辞苑で「大人」を調べると「十分に成長した人。(元服または裳着もぎが済み)一人前になった人。成人」、「考え方・態度が老成しているさま。分別のあるさま」と書かれていますが、選挙権を得た18歳も、成人式を終えたばかりの20歳も、そして還暦を迎えた私も一応大人ですので、何をもって「十分に成長」や「老成」とするのかは本当に難しいです。ただ、今回、若い人たちの感想を読ませていただき、「大人だからできること」、「大人の役割」は間違いなくあると思いました。その一つが「死」について考える機会を作り続けることでした。

●『死を考えさせる大人』
 かなり前から若い人向けの講演の中に、私が経験してきた「死」を可能な範囲で盛り込むようにしてきました。そうし始めた理由の一つが「死」という言葉に若い人たちが反応しなくなったと感じたからでした。昨年末も祖父母をストレス解消のために殺してしまったという高校生がいましたが、それも「死」を経験していないからだと思いませんか。一方で積極的に「死」という言葉を使い、岩室自身の経験を語ると、実は、減ったとは言え、若い人たちが経験している「死」を振り返り、そこから新たな学びをしてくれることに気づかされました。

○『死を見せた大人』
 次のように書いてくれた高校生がいました。

 私が一番身近に死を感じたのは祖父の死です。私は祖父にとって初孫でしたのでとてもかわいがってもらいました。小さい頃、祖父はずっと元気で毎年毎年もちつきをして一緒に遊ぶのが当たり前だと思っていました。しかし、だんだんと病院に行くことが多くなり、入院しました。それでも治ってまた遊べると思っていましたし、お見舞いも面倒くさくて、何回かさぼったりしました。そして祖父が死んだ時、私は涙が止まりませんでした。とても悔やみました。何故もっと話をしに見舞いに行かなかったのだろう。もっと遊びに行かなかったのだろうと。本ではよく目にしていた言葉で、わかっていたつもりだったけど、わかっていたつもりでした。「こころにぽっかりと穴が空く」本当にその通りでした。

 自分にとってつらいことを振り返るのは、もっと自分を追い込むようで、そのような状況は避けたいと思いがちです。しかし、お祖父さんは、自らの「死」を通して楽しかった頃の思い出や、後悔を経験させてくださり、この生徒さんが大人になる道を示してくださったのではないでしょうか。お祖父さんはまさしく、体を、命を張って命を、死を見せた大人でしたし、私も死を語ることでこの生徒さんにお祖父さんとの思い出を振り返る機会を与えられたのかなと思いました。

●『言葉を増やすきっかけを与える大人』
 昨年の9月30日に築地本願寺で「絆」を「きずな」の他に「ほだし」と読むことを教えていただいて以来、若い人たちにもこの言葉を伝えていますが、それが若い人たちにも響いています。

 私は今回の講演を聞いて、命についてが印象に残り、考えていました。先生が本日おっしゃっていた絆(ほだし)の話を聞き、先月の父方の祖母のお葬式を思い出しました。お葬式の後に行われた初七日で、お坊さんから説法を聞かされたのですが、その中で「縁」という単語をよく聞き、人との関係、つながりについてを何度も伝えられました。先生は絆が自由を束縛するという意味だと教えてくれましたが、私はこの二つは同じようなものだと思いました。きつい束縛はいけませんが、人とのつながりは大切であり、男女交際でも相手との距離を測り、相手について理解し、互いを尊重することが重要だと感じました。
 昨今、お葬式も簡素化し、お坊さんの説法も減ってきたと嘆いていたのですが、この生徒さんはお葬式を、お祖母さんの死を通して「縁」や「絆(ほだし)」といった言葉に出会い、関係性やつながりについて深く考える機会をもらったようです。

○『大人が子どもになる(?)SNS』
 FacebookやTwitter、LINEなど、様々なSNSがありますが、私自身、十分使いこなしていません。しかし、これらの中でとりあえずよく使うのが実名と写真を公開しているFacebookです。しかし、Facebookには社会通念のようなルールが確立されていないので、見知らぬ人が何の前触れもなく友達申請をすることができ、「〇〇さんから友達申請がありました。承認しますか」という連絡が入ります。その人のサイトを見てもどのような人かわからない時、私はその友達申請を無視するようにしています。私自身が誰かに友達申請をする際には、必ずと言っていいほどメッセージも届けた上で友達申請をするようにしています。これが大人のルールだと思っていました。
 ところが、最初に紹介した「良いお年を召して、日本語知らないのかな?」というメッセージを送ってくださった方は、無言の友達申請をされていました。職種等を考えて承認したら、「ご承認ありがとうございます。よろしくお願い致します。」というメッセージが来たのをスマホで確認したのでスマホからFacebookの機能の一つの「いいね」の記号で返したら、前述のお叱りでした。そこで次のように返事をパソコンからしました。

 失礼しました。
 FacebookをはじめとしたSNSは難しいですね。
 名乗ることなく「友達」申請がきますので承認するかどうかにいつも頭を悩まされてしまいます。
 スマホでメッセージを受けてもスマホでの日本語入力が苦手なため、Facebookで多くの人が使っている機能で返事をすると「日本語を知らない」とお叱りを受けてしまう。
 それでも便利なツールなのでこれからも慎重に使い続けたいと思います。
 よろしくお願いします。

 と送ったら、

 削除されると思っておりました。さすが懐が大きい。失礼はお詫びいたします。
 御迷惑でなければ、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 ということになりました。

 削除だなんて、と思いながら、SNSと人間同士が触れ合う、特に大人の社会との違いを考えてしまいました。SNSは通信、コミュニケーションの手段でしかないはずですが、SNSでしかつながれない人たちにとっては自分自身の存在を確認する唯一の場です。先の方が「削除されると思っていた」ように、気に入らないと一方的に関係性を絶つことができます。
 人間社会、特に大人社会は絶ちたくても絶ち切れない関係性、柵、絆(ほだし、
遠慮、妥協、理不尽、矛盾、など、様々な人間関係が生み出すネガティヴな部分と付き合わなければなりません。もちろんこのネガティヴな部分がもたらすストレスは大きいのですが、そのストレスと上手に付き合って生きて行くしかないのが大人なのかなと思いました。自分の経験としてつながる大切さを話したら
そのことも生徒さんたちの心に響いたようでした。

 今回の講演を聞いて感じたのは、何事もとりあえず友達に言った方がいいということです。自分自身一人でいろいろ考えて、結果パンクしかけたり、ずっと悩んでいたことをふとした時に友達に相談すると「わかる!!」と意外と共感してもらえて、それで悩んでいるのは自分だけじゃないということに気づいて気持ちが軽くなったりした経験が何度かあるので、とりあえず友達に話そうというのがすごく身に染みて思いました。

 大人とは人とつながり続けられる人

 もちろんつながり方に濃淡はありますが、つながり、関係性から発生するストレスを解消するための手段も持ち合わせているのが大人ではないでしょうか。そのような大人がもっと子どもたちや若者たちとつながることができれば、悲しい経験する人を少しは減らせると思いませんか。

 本年もよろしくお願いします。