紳也特急 134号

~今月のテーマ『思考のための言葉』~

●『テレビのための精神分析入門』
○『PowerPointとトークの違い』
●『「言葉」が通じない』
○『理解できる言葉と理解できない言葉の違い』
●『テレビ離れの原因は話し言葉が通じていないこと?』
○『思考言語』

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●『テレビのための精神分析入門』
 ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が発売された1967年に皆さんは何歳でしたか。まだ生まれていなかったという人も多いでしょうが、12歳だった私はアフリカのケニアから帰国したばかりで、日本語もちゃんと喋れませんでした。そんな時に流行していたこの歌詞を今でも歌えるほど何度も歌い、覚えていました。この曲で一世を風靡した北山修さんがその後精神科医になったのは知っていましたが、精神分析や臨床心理学を専門にしていたのは知りませんでした。この度、北山修さんが九州大学を退官する際の『最後の授業』(NHK)を何気なく録画して見たところ、ラジオ時代からテレビ時代へと移り変わり、いまやネット時代へと変貌する世の中で育っている「人」を考える上で大変興味深い内容となっていました。思わず本まで買って読んでいました。
 北山修さんの話で印象に残ったのは「ラジオだと想像力が掻き立てられるが、テレビだと想像力が働かない」と、「テレビは表のことしか伝えないが、人には表と裏がある」でした。確かに映像を前にすると人は想像力を働かせない、というか想像力が働かないというのは以前から感じていたことでした。今回、北山修さんに「テレビとラジオの違い」という視点を指摘され、思い出したのが「考えることを放棄しないようにしたい」と感想に書いてくれた高校生の言葉でした。テレビという機器が人に考えることを放棄させているとすればどうすればいいのでしょうか。
 実は、今年になって「言葉を受け止める」ことや「考える」ことが非常に大きな「能力」であると実感させられるとともに、人に何かを伝える際に、受け止める方がその人なりの「言葉」を駆使して考え、思考することが大事だという経験をさせてもらいました。そこで、今月のテーマを「思考のための言葉」としました。

『思考のための言葉』

○『PowerPointとトークの違い』
 相変わらず講演をする毎日ですが、年間200回以上講演する内の半分は大人を、半分は若者を対象としています。しかし、大人に対する講演の仕方と、若者に対する講演の仕方は180度変えています。以前は大人にも若者にもマイク一本で話していましたが、若者たちが話だけで考え、満足してくれるのに対して、大人たちは必ず「今日の話の資料が欲しい」と言ってきました。「エイズ」、「思春期の性」、そして近著「健康なくに」を読んでいただければ私の思いがそれなりにまとめられています。しかし、講演内容も日進月歩ですので、結局のところ、講演のPowerPointを講演後1週間公開することで大人たちのディマンドに答えざるを得ません。
 しかし、子どもたちに話す際にPowerPointを使うと、マイク一本で話す時と違い、映像を一所懸命に追ってはくれるものの、私の話し言葉をきちんと聞いてくれていないように感じていました。これは北山修さんに言わせれば「テレビとラジオの違い」ならぬ「PowerPointとトークの違い」でしょうか。そのため、子どもたちに話す際には言葉だけの講演を心掛けてきました。しかし、最近、その「言葉」、「話し言葉」が通じないという経験をしました。

●『「言葉」が通じない』
 年間100回若者たちに話していると、本当にいろんな子どもたちに出会います。中学生、高校生、専門学校生、大学生と年齢幅も広く、日本国籍だけではなく、外国籍の子どもたちがいる学校も増えています。学習レベルも東大に毎年何十人と送り込む学校もあれば、学習困難校、教育困難校と呼ばれる学校もあります。ただ、どこに行っても私の話はそれなりに聞いてもらえるという自信がありました。ところが、昨年と今年、2年連続で呼ばれた学校で、2回ともほとんど聞いてくれなかった学校がありました。確かに私自身の体調やノリで上手くキャッチボールができないこともありますが、2年連続で「聞いてもらえない」講演になったことには落ち込みました。
 その学校の先生が、「この子たちには映像を見せる方がいいと思います」とアドバイスをくださいましたが、「それでは私の話をその子たちなりに考えたり、受け止めたりしなくなるので話し言葉で伝えたいのです」と反論していました。しかし、「何で聞いてくれないのだろうか。岩室の話が時代にマッチしなくなったのだろうか」と落ち込む一方でした。しばらくしてその学校の先生から「今年度の大半の生徒達にとって、耳からの情報を、興味を持って自分のこととして受け止め、考えることの難しさはあったように思われました」というメールをいただきました。正直なところ、その時点ではこの先生がおっしゃっていることは十分理解できませんでした。
 その後、教育学の専門の先生と話す機会があり、聞いてもらえなかった学校のことを話したところ、「それは十分考えられることです。『言葉』が通じていないのですよ」と教えていただきました。その先生の話を私なりに整理してみました。

○『理解できる言葉と理解できない言葉の違い』
 人は言葉を「文字」として視覚でとらえたり、「話し言葉」として聴覚でとらえたりします。聴覚に障害がある方は「点字」を触覚でとらえます。しかし、「文字」として認識することと、その「文字」が持つ意味を理解するということの間には高度な「理解の行程」があります。一例をあげると、「岩室紳也」という文字や「いわむろしんや」という話し言葉を認識できたとしてもそれが、現在この原稿を書いている「岩室紳也(いわむろしんや)」であると認識できる人はどれだけいるでしょうか。岩室紳也をご存知の方は、「あのメガネをかけた、性教育やエイズの講演会では必ずコンドームのネクタイをしている岩室紳也」を思い浮かべていただけると思いますが、偶然このメルマガを読んだ、読まされた人は「誰、それ」ですよね。そもそも「いわむろしんや」という言葉を耳にした人はもしかしたら「それって食べ物」と思ったり、「それって新しい深夜番組」と思ったりしたかもしれません。
 「私の患者さんでHIV(エイズウイルス)に感染した・・・・・・」といった話を聞いてもらうためには、「かんじゃ」という音も、「えいずういるす」という音も、「かんせん」という音も、ちゃんと「患者」、「エイズウイルス」、「感染」という言葉として認識されなければ、理解につながりません。「そんなの当り前でしょ」と私も思っていました。しかし、「わたしのかんじゃさんが、えいちあいぶい、えいずういるすにかんせんした」という文字を読んでどう思いましたか。「アイディデントノウダッイットウォズコッモンセンオヴエヴリボディズ」という言葉を皆さんは理解できますか。でも、“I didn’t know that it was common sense of everybody’s.”だと少しは理解できますよね。

●『テレビ離れの原因は話し言葉が通じていないこと?』
 テレビ離れが進んでいるという話を聞きながら、ゲームやネットの方が面白いと感じる人が多い理由を考えていました。もし、テレビを見ていても、そこで展開されている会話が理解できないために見ていても面白くないと感じ、テレビ離れが加速されているとしたら皆さんはどう思われますか。確かに子どもの頃はNHKの大河ドラマが面白くありませんでした。その理由はそこで語られる歴史に関する表現が、登場人物の名前やその人たちの関係性が理解できなかったからです。しかし、今見ている龍馬伝では坂本竜馬、高杉晋作、西郷どんと言った登場人物の関係性がわかっているから引き付けられています。結果が、展開がわかっていてもその関係性や展開を楽しんでいます。このことは逆に、次なる展開を予想することなく、考えることをしないで見られる面白さを求めているとも言えます。
 では、家族の関係性が希薄化し、いろんな人との会話を通したコミュニケーションを繰り返してこなければ、話し言葉を理解する能力はどのように育つでしょうか。もちろんケイタイでメールのやり取りができているので、文字として目に飛び込んでくるものはそれなりに理解できていると思います。しかし、話し言葉に慣れていない。話し言葉、というか日本語の会話がまるで外国語のように聞こえている若者が増えているとしたら本当に恐ろしいことだと思いませんか。テレビ離れも当然の帰結?
 話し言葉を覚える年齢の子どもを連れているお母さんがケイタイに夢中で子どもに話しかけていない光景はあちらこちらで当たり前のように目に飛び込んでくるようになりました。当然のことながら、この子達が話し言葉を覚える機会は減少していると言わざるを得ません。

○『思考言語』
 私にアドバイスをくださった教育関係の先生は、話し言葉は「音声言語」、文字は「書記言語」、手話は「手話言語」であり、大事なことはこれらの「言語」をつかってどう思考を深められるかということだと。ろう者にとって読み書きを習得することは決して容易なことではないのは、書記言語と音声言語は、書記言語と手話言語に比べてはるかに言語的距離が短いためとのことです。
 話すこと、すなわち音声言語でコミュニケーションが流暢にできていても、音声言語が書記言語につながっていなければ思考言語にならないとも教えてくださいました。確かに帰国子女だった岩室紳也は、帰国した当初は日本語で会話をしていたものの、思考言語は書記言語の英語でした。難しい話になると自分の中で切り替えて考えていました。逆に、書記言語と音声言語の距離が縮まっていないと、「思考」ができない、「わかーんない」となります。
 で、どうする。本当に難しいです。