紳也特急 89号

〜今月のテーマ『真剣に生きる』〜

●『読者からの励まし』
○『学校現場は頑張っています』
●『真剣な大人を増やす』
○『親を信じられない子どもたち』
●『愛されている実感』
○『愛の形』

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明けまして、おめでとうございます。
 今年も、多くの方々がつながる一年になればと思っています。
  よろしくお願いします。

●『読者からの励まし』
 メルマガを発行して早8年目になりました。ここまで続いたのも、多くの方が読んでくださるだけではなく、反論を含め、私とのコミュニケーションツールとして活用していただいているおかげだと思っています。先月号にも次のような感想をいただきました。

 紳也特急Vol.88拝読させていただきました。学校教育に対する鋭いご指摘ですが、私は、納得行きません。技術ではなくて、考え方を教えるべきだということには、同意です。しかし、学校教育は、考え方を教えていません。今の学校教育は、正解を出すことを教えているだけです。
 例えば、音楽の授業では、楽譜の読み方を教えます。作者が意図した正解を出す方法です。作曲方法なんて、教わったことがありません。算数も、3+1=?という、正解を出すことを教えますが、3○?=4というようなことは、教えません。3+1を考える考え方を教えるというのは、邪道です。人から教えられた考え方のプロセスは、すぐに忘れてしまいます。私は、受験時代にあれだけ苦労させられた微分や積分の計算方法を既に忘れています。
 公教育では、会社に就職して、誰かの言いなりに、答えを出すようになることを訓練されているように見えます。本当の教育というのは、社会の仕組み・成り立ちを教えることだと思います。例えば、税金の仕組みなんて、絶対教えるべきです。社会を支配する人たちは、残ったお金の中から最後に税金を払うけれども、支配されている人たちは、あらかじめ税金を差し引かれているのです。私は、ロバート・キヨサキのビデオを見て、知り、大いに納得しました。
 人は、誰の言うことを信じるかを毎日選択して生きているのではないかと思います。おじさんの言うことを聞いたり、学校の先生が言うことを聞いたりします。親の言うことは、最も大きな影響を受けます。ロバート・キヨサキの実父は、ハワイ州の教育長を勤めた偉い人ですが、「貧乏父さん」だったそうです。親友の父親は、ハワイで一番のお金持ちで、ロバート・キヨサキは友人の父親の言うことを聞くことにしたのだそうです。そして、自分自身が大金持ちになったそうです。しかし、その生活は、満足できるものではなかったので、実父のように、今は、教育に熱心に取り組んでいるそうです。そして、お金持ちになる方法を、多くの人に伝えていると言っていました。

> 『「学校教育」は公教育であり、教師が「私」を語ところではない。
> 「私」を磨きつつも「私」を語るところではない』のことでした。
というのは、「私」を磨けない教師がいることに対する言い訳でしかないように思います。やはり、自分の言うことを信じさせたかったら、自分を磨くしかないのではないでしょうか。

> 実は医学教育もそうです。メタボリックな医者、保健師、栄養士が
> 平気な顔で「あんた痩せなさい」と指導しています。
愛のない教師が、マニュアルにしたがって、愛を大切にする考え方を語っても、誰のこころにも響かないでしょう。一人の先生に、全てを教えさせようとすることに無理があるのだと思います。そのための学社連携なのではないでしょうか。

 鋭い指摘ですね。でも、組織としての学校論と、一人ひとりの先生に支えられている学校現場の議論をわけてしなければならないと思いました。と同時に、一人ひとりの「真剣さ」がつながる、共有できる環境を作り上げることの大切さを改めて感じました。そこで、19年初頭のタイトルを「真剣に生きる」とさせていただきました。

「真剣に生きる」

○『学校現場は頑張っています』
 学校現場は本当に辛いと思います。今回、教育基本法が改正されたことについて様々な議論がありますが、私は改正の議論をした人たちは「組織」を見て「人」を見ずになっているように思います。本当に「学校現場」の実情を知っているのだろうかと疑問に思わざるを得ません。法改正をした人たちも「学校の実情は視察等で十分承知しています」とおっしゃるでしょうが、タウンミーティングの「やらせ」が当然の帰結のように、学校に視察に行っても、本当にひどいところを見せてもらえないように思います。登校できても授業を聞いていられない若者たちの真の背景が見えていたら、もう少しやさしい視点で教育現場をサポートしようと思うのではないでしょうか。
 私自身、20年以上学校にお邪魔していて、多くの先生が、本当に真剣に生徒と向き合おうとしていると思います。確かに、中には教育者として十分な能力がないにも関わらず、現場にとどまっておられる方もいます。ただ、これは教育現場に限ったことではなく、教育現場だけを批判したら天に向かってつばを吐いているようなものです。医者の世界にもいろんな医者がいます。公務員時代にも多くの給料泥棒の方にお会いしました(苦笑)。私が中学や高校に通っていた時も「変な教師」はいましたが、その人たちもまた多くの学びを私にくださいました。よく言われる「不適格な教師」がいたとしても、周りがもっとうざく、その教師が関わっている生徒さんたちにその教師以上に関われれば、子どもたちも自ずと、何が正しいのか、何がおかしいのかを学んでいくはずです。

●『真剣な大人を増やす』
 健康づくりの分野でも、メタボリックを見つけ出し、徹底的に指導し、医療費を減らそうという動きが加速しています。教育現場の改革もダメな教師を見つけ出し、教員免許の更新時にダメな教師を排除しようとしています。でも、悪者探し、ダメ人間排除をしようとすればするほど、その環境にいる人は萎縮しますよね。医療費削減の話が出てきたのも、国民の財布の中身の多くが医療に使われるようになると、飲食や商品の購入に廻るお金が少なくなるから何とかしろという経済諮問会議の要求が強かったからです。人づくり、教育が大事と言いながら、本当にそう思うのであれば、教師を減らすのではなく、増税してでも教師をもっと増やしたり、学社連携で子どもたちの周りの真剣な大人をもっともっと増やしたりしてもらいたいものです。

○『親を信じられない子どもたち』
 携帯サイトに紳也特急がコラムとして掲載されています。その読者からこんな意見をいただきました。
 『マジメにLOVE×2塾』で、岩室先生のコラムを拝見しました。『いま』より『これから』を考えるのはとても大切な事だと思いました。私は幼稚園で働いているのですが、岩室先生のコラムを読むたび『あんなに愛されて、素直に育って行く子供達が、どうして高校生になるとこんなに絶望を抱えるようになってしまうのか』と思います。なぜ今の思春期の子供達(私も岩室先生からすれば子供のようなものですが)は、あんなに『愛されている』実感がないんでしょうか?
 自分の過去を振り返ってみると、確かに高校生頃は親の言うことなんか、みんな私のやりたい事を否定する事ばかりでウザったいとは思っていました。けれど、同時に、それは親の愛情の形のひとつだったともわかっていました。なぜ、いまの子供達は自分達の親を信頼する事を出来ないのでしょうか?

●『愛されている実感』
 「愛されている」実感というのをどう説明するかが難しいですね。少なくとも私は、「愛されている」ということを言葉で実感しませんが、「愛されている」ということを環境で実感させていただいています。「『愛』の反対は『無関心』」というマザーテレサの言葉は重いですよね。ご飯を作って、とにかく食べさせて、きれいな服を着せて、うざく声をかけてもらう。「死ぬ」と言われたと聞けば一緒に泣く。すれ違ったら挨拶をする。調子悪そうだったら声をかける。こんな些細なことの積み重ねが愛されていることを実感できる環境ではないでしょうか。それがおそらくない子どもたちが多いのだと思います。

○『愛の形』
 この季節、多くの人が期待するのが人からの贈り物です。クリスマスプレゼント。お年玉。誕生日プレゼント。お土産。いろんな形の贈り物があります。高いプレゼントをくれると「愛されている」と感じる人もいるでしょう。岩室紳也の「愛」を「形」にするとしたらどういうことだろうと考えてみました。
 偉そうに聞こえるかもしれませんが、その人に真剣に向き合っているときが、私がその人を愛しているときであり、真剣に向き合う姿勢が愛の形なのかなと思います。若者たちの前で講演しているときは本当に真剣勝負です。でも、一言も「君たちを愛しているからちゃんと聞きなさい」とは言いません。言わなくてもちゃんと私の愛を受け止めてくれます。
 真剣な姿で、生きて、その人の前に立ち、声をかける。今年もこのことを忘れずに多くの人とつながって生きたいと思います。
 本年もよろしくお願いします。