SNSが助長する正解依存症

 SNS上に次のような書き込みをされました。

 コンドームの達人こと岩室紳也先生。かつての先生を存じ上げませんが今の先生は会話が成り立たない方という印象しかない。

 お会いしたこともない、ネット上でわずかなやり取りを下だけの方がご自身のサイトにこのようにコメントをし、それに「いいね」をされる方がいる。でも岩室紳也との対話は一切なし。でもこの方はリテラシーを大事にされているようです。
 それはそれでいいと思っています。みんながお互いを理解したり、対話を続けられたりするというのはある意味空想のようなものなのだと思っています。しかし、SNSというのはこのような書き込みをした瞬間、「私のこの意見は正解です」と認知されたような錯覚を生んでいないのでしょうか。
 実は私も敢えてこのようなブログや、SNSではFacebookという自分自身の素性がわかる書き込みをしているのも、異なる意見があれば是非公開の場でやり取りをさせてくださいという思いからです。そう思うようになったのはSNSの問題を学んでいたからでした。

 「目から入った情報は分かったような気になる」と北山修先生が最後の授業で教えてくれましたが、おそらく「「目から入る文字を自分なりの解釈で勝手に読んで分かった気になっているだけ」なのだと思いました。

 私のFacebookへの書き込みにいろんなコメントをいただきますが、対話になる方と、対話にならない方がいます。もちろん私の書き方に問題がある場合は指摘を受け修正するようにしています。しかし、同じ文面を読み、岩室の表現不足や岩室なりの思い込みを修正し、最終的に双方が納得できるように持って行って下さる方と、最後まで全く歩み寄れない方がいます。その違いをあらためて考えてみました。

 結局のところ、対話というのは、基本的に相手を認め、受け入れることなのではないでしょうか。もちろん相手の気持ち、思い、思想に賛同できない場合は多々あります。しかし、大事なことは「なぜこの人は、この人たちは自分とは異なる考え方をするのだろうか」ということに思いを寄せることだと思います。

 イスラエルとハマス。この問題を遠く離れた、地域の課題をほとんど知らない日本人の私が軽々に論じること葉できません。SNSが普及した結果、日本でも同じように理解することを拒否する社会が広がるのかなと思うと、背筋が凍る思いです。皆さんはいかがですか?

つづく

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