紳也特急 294号

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■■■■■■■■■■■  紳也特急 vol,294  ■■■■■■■■■■
全国で年間200回以上の講演、HIV/AIDSや泌尿器科の診療、HPからの相談を精力的に行う岩室紳也医師の思いを込めたメールニュース! 性やエイズ教育にとどまらない社会が直面する課題を専門家の立場から鋭く解説。
Shinya Express (毎月1日発行)
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~今月のテーマ『対話を阻む正解』~

●『生徒の感想』
○『経験が学びになるには?』
●『自分ごとの経験が不可欠』
〇『住民力の大切さ』
●『一人ひとりの正解』
〇『対話を阻む正解』
●『正解がないのが対話』
〇『緊急時、災害時にこそ対話を』
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●生徒の感想

 考えることによって正しい知識を得ることができるということがわかった。感染症や誤訳について新しい見解を知ることができたのが印象に残った。(高3男子)

 答えづらい質問をするのは少し良くないと思ってしまった。相手を不快にさせてしまうかもしれないから。(高2女子)

 講演会も復活し、いろんな生徒さんの感想をもらいますが、今回は敢えてこの二つだけを紹介したいと思いました。そして今月のテーマを「対話を阻む正解」としました。

対話を阻む正解

〇経験が学びになるには?
 正月早々能登半島地震が発生してから1ヶ月経ちました。いろんな情報が飛び交っていますが、被害は本当に甚大であるにも関わらず、感染症や震災関連死の増加、復旧の遅れ、支援の遅れ、等々、様々な指摘がされています。私は東日本大震災の際には陸前高田市につながりがあったことでお手伝いに入ることができましたが、今回は残念ながらつながりがないことから募金以外に関わる方策がないのが現状です。ただ、災害に備えるために必要な視点について、いろいろと気づかされ続けています。
 これまで繰り返し「人は正しい知識に、正解に学ぶのではなく、経験に学び、経験していないことは他人ごと」と言ってきました。しかし、今回の震災を受け、このことをもっと突き詰める必要があると気づかされました。自分自身、東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市に今でも入り続けており、震災やそこからの復旧、復興に当たっていろんな経験をさせてもらっていたにもかかわらず、経験していても十分学習できていなかった、身についていなかった、考えていなかったことが多々あることに改めて気づかされました。その一例が水道の耐震化の問題でした。

●自分ごとの経験が不可欠
 今回、能登半島地震の報道で上下水道管の復旧に時間がかかっていますが、そもそも水道管の復旧にどれぐらいの時間がかかっていたのかを考えたことはありませんでした。さらに自分自身が住んでいる地域の水道管の耐震化がどの程度進んでいるかほとんど関心がありませんでした。つい先日も近所で一時的に道路の通行止めまでした大規模な水道管の工事が行われていましたが、そのありがたみを今回の地震で思い知ることになりました。
 耐震適合性のある管の延長/基幹管路総延長=耐震適合率で見ると、神奈川県は73.1%に対して最も低い高知県は23.2%、全国平均が41.2%でした。ちなみに石川県七尾市が21.6%、加賀市が17.9%でした。水道復旧の困難さは実は陸前高田市で経験していましたが次の記事を丁寧に読んだのは今回が初めてでした。

 陸前高田ようやく全域で水道復旧

 いま、陸前高田市で定宿にさせていただいている民宿むさしがある地域は、この記事にあるように2011年6月26日、震災から108日目にやっと水道が復旧していました。この地域の水道の復旧が市内でも最も遅れていたのは知っていましたが、当時は水道管の耐震適合率といったことを調べるという発想もありませんでした。この地域での復旧までの期間を今回の能登半島地震に当てはめると2024年4月17日となります。現段階での見通しで「遅い地域は4月以降となる見込み」となっていますが、能登半島よりも支援が入りやすかった陸前高田市でもそれだけ時間がかかっていたことに学んでいなかったことを反省しています。被災地での水道の復旧をもっと早めるには、そもそも地域での水道管の耐震化を促進することが求められていたのですが、東日本大震災からの復旧という経験をしていたにもかかわらず、なぜ地域間格差があるのかを含め、自分ごととして勉強できていませんでした。人は経験に学びますが、自分ごとの経験であることが必要、というか不可欠だと痛感させられました。

〇住民力の大切さ
 一方で今回の地震で改めて明らかになったのが住民力の大切さでした。福島第一原発事故を受け、石川県志賀町にある志賀原発も稼働停止中だったため、震災で大きな問題は起きていません。しかし、この原稿を書いている時に次のようなニュースがありました。

 石川 志賀町で大地震引き起こした活断層とは異なる断層確認

 この記事では志賀原発の再稼働の判断が注目されますが、それ以上にびっくりしたのが珠洲原発構想が住民の反対で阻止されていたことでした。

 「珠洲原発があったら…もっと悲惨だった」 能登半島地震で孤立した集落、原発反対を訴えた僧侶の実感

 珠洲原発を止めて「本当によかった」 無言電話や不買運動に耐えた阻止活動28年の感慨

 珠洲原発は今回の能登半島地震の震源のほぼ真上といっていい所に建設される予定でした。もし建設されていたら(もちろん福島第一原発の事故があったおかげ(?)で稼働停止中だったでしょうが)、もし稼働中だったらどうなっていたのでしょうか。珠洲原発計画は2003年12月に凍結されたのですが、たった20年前のことです。
 住民力が専門家たちの予想よりも的確だったのは何故でしょうか。ここ数十年で蓄積された「学問」ではなく、もっと大局的な判断ができていたからではないでしょうか。そもそも日本列島の「もと」は2000万年~1500万年前頃にアジア大陸から離れ、太平洋へ向かって移動しました。

 日本海の拡大と北部フォッサマグナ地域の沈降

 一方で今回の現象は

 「数千年に1回の現象」防潮堤や海沿い岩礁約4m隆起 石川 輪島

 とのことです。いろんな立場の人がいるからこそ、専門家や企業を信じる人もいれば、自分の世界観やそれまで何となく学習していたことの方を信じる人もいます。もし今回の地震が100年後に起きていたら専門家や企業を信じていた方々は自分たちの判断が間違っていなかったと思って旅立てたことだと思います。このようにいろんな意見が、それぞれの正解があるからこそ、一人ひとりが考え、判断し、その結果を受け入れることが大切だということが確認できた、いい機会になったのではないでしょうか。

●一人ひとりの正解
 ただ、珠洲原発に賛成した人たちが間違いで、反対した人たちが正しかったという話ではないと思います。イスラエルとハマスも、ロシアとウクライナも双方自分たちの正解、正義を信じて戦っています。中国、ロシア、北朝鮮とアメリカ、日本、韓国も双方の正解を信じて疑わず、お互いに歩み寄るつもりはありません。人間というのはそういう存在だということを認識した上で、自分の身の処し方を考える必要があるのでしょうか。
 新型コロナウイルス対策、インフルエンザ対策におけるマスクの意味について、岩室紳也は自分なりの納得の中で一定の主張をしていますが、全く違う視点でご自分の正解を信じて疑わない方々が街中でマスクを着けて生活されています。このように一人ひとりが自分なりの正解を疑うことなく、それこそ他の人にも押し付ける正解依存症になっている社会の中で、われわれはどのような方向性を目指せばいいのでしょうか。

〇対話を阻む正解
 ここで改めて最初に紹介した女子高生の言葉を紹介します。

 答えづらい質問をするのは少し良くないと思ってしまった。相手を不快にさせてしまうかもしれないから。(高2女子)

 確かに相手を不快にさせてしまうことを避けるのが今の日本ですが、そもそも相手が不快に思うことを完璧に避けるには相手と関わらないこと以外にありません。しかし、それは無理だとするとどのような関りが双方に求められているのでしょうか。
 この生徒さんの指摘で気になったのが「答えづらい質問」という生徒さんの基準、正解に沿った指摘でした。私の講演はいろんな人との、今の自分はもちろんのこと、過去の自分、これまで出会った人との、そして目の前にいる生徒さんとの対話の中で話を組み立てているつもりですが、こちらが対話のつもりでも、対話ではなく質問や不快に思う指摘、正解の押し付けのように受け止められる難しさを感じました。対話が成立していたら、「今の発言について私は不愉快に思ったのですが、なぜそのような発言をしたのでしょうか」と返してもらえれば、「いやいや、こういう意味で発言したのですが、その真意が伝わっていなかったのですね。失礼しました」という対話になったと思います。

●正解がないのが対話
 斎藤環先生の言葉をいつも反芻しています。

 対話(dialogue)とは面と向かって声を出して言葉を交わすことで、思春期の問題の多くは対話の不足や欠如からこじれていく。議論、説得、正論、叱咤激励は「対話」ではなく「独り言」である。独り言(monologue)の積み重ねが、しばしば事態をこじらせる。対話の目的は「対話を続けること」。相手を変えること、何かを決めること、結論を出すことではない。

 一方が対話をしているつもりでも、その相手が正解を押し付けられていると受け止めれば対話は成立しません。すなわち、対話の中には正解はなく、お互いの可能性を模索するプロセスです。でも正解を求めている人たちは、相手の言葉に正解を求め、自分も正解を発信しなければならないと考えてしまいます。テレビのコメンテーターの言葉を聞いている人たちも、どれだけその言葉と対話をしているのでしょうか。「そうだ、そうだ」と自分の中の正解と照らし合わせているだけではないかと思ったりしています。難しいですね。

〇緊急時、災害時にこそ対話を
 東日本大震災で被災地に入らせてもらった時、一番心掛けていたのが対話だったことを思い出しました。それは「こうしましょう」と言わず、被災地で暮らしている、活動している一人ひとりの言葉を拾いながら、その中で自分を含めた一人ひとりができることを見つけることでした。なぜそれができたのかを改めて振り返ると、治療方法もなく、ただただ死を迎えるしかなかったAIDSの患者さんと向き合う中で、一番大事だったことがおしゃべりをする、対話をすることだと気づかせてもらったからだと思います。
 陸前高田市で全国から保健師さん等が支援に入ってくださり、全戸訪問をしてもらう中、われわれがとにかく支援者に求めたのが、住民一人ひとりと話してください、対話をしてくださいということでした。人は話すことで癒されるというカール・ロジャーズの言葉を教えてもらった時に「これだ」と思ったのを鮮明に覚えています。同じ地域で暮らしている知人、友人に言えないことも、遠くから来た、しかも専門家の人たちにはこころの内を話したくなるようで、多くの専門職の支援者は「今日はこれだけしか訪問できませんでした」と帰ってこられました。しかし、それこそが住民の方々のこころの健康づくりであり、いま陸前高田市で進んでいる「はまってけらいん、かだってけらいん運動」の原点でした。
 これからも正解を求めるのではなく、いろんな人と対話を続けられるよう、日々精進したいと思いました。bsp;