〜今月のテーマ『愛の反対は?』〜
●『愛を教えたい』
○『あぶあぶあ』
●『感動は生き方から』
○『愛のない暮らし』
●『生き方が「愛」』
○『ほめることは感動の共有』
●『既に育った感性を信じて』
○『感性を育める環境整備を』
☆『思春期保健指導者研修会のお知らせ』
◆CAIより今月のコラム
「イマドキの親子」
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●『愛を教えたい』
先日、ある性教育に関するシンポジウムで話したところ、性教育を20年以上してきたという方が、ぜひ「愛情」、「子孫繁栄」、「快楽」をセットで教えてくださいというコメントをされました。時間の都合上一言も反論できなかったのですが、私は「私の話の中で『愛』を感じなかったのですか。もしそうだとしたら私の妻は本当にかわいそうな人ですね」と言いたかったですね。(もっとも家内は「十分不幸よ」と言うかもしれませんが。)
また、別のところで「性教育とは、自尊感情、自己肯定感について教えること」という意見を述べられる方がいて、「その通り」と思いつつ、「で、どう教えるの」という私の疑問に対する解答は「自分を大切にしようと教える」というスローガンだけでした。
愛は教えるものではなく、「感じるもの」ではないでしょうか。自尊「感情」、自己肯定「感」も「感じるもの」ではないでしょうか。命の大切さも教えるものではなく、「感じるもの」だと思います。しかし、最近、安易に「○○を教えよう」という人が多くないでしょうか。
そんな私も「『愛』の反対は」と聞かれた時、私は「憎しみ?」、「嫌悪感?」、「?????」とよくわかりませんでした。現在茅ヶ崎保健所にいるたばこ対策のスペシャリストの原田先生が「愛の反対は無関心ですよ。マザーテレサが言っていたのを知りませんか」と教えてくれました。私は多くの人に囲まれ、いろんな方から情報をいただけることが今の自分の礎だと思っています。正直、目から鱗でした。
ということで、今月のテーマは「愛の反対は?」としました。
『愛の反対は?』
○『あぶあぶあ』
9月25日にダウン症や自閉症という障害をもった方たちがはじめて東京でコンサートとミュージカルを上演しました。それを見に行っていた私の目から涙が止め処なくあふれていました。ステージ上で一生懸命歌い、踊り、そして表現している一人ひとりのプレイヤーの存在自体がすばらしい感動でした。
●『感動は生き方から』
そこで思い出したのが先日私の話を聞いてくれた中学生が「最後のところに感動しました」と一言感想文に書いてくれたことでした。感動というのは人の生き方、あるいは生きている姿の中から受け止めることのようです。よく学校の先生方が「事例に基づいた話をしていただけると子どもたちも聞きやすいようです」とおっしゃるのですが、確かにHIVに感染した人の生や死、あるいは「性」と向き合い、「性」をどう生きるかを、実例を通した話を伝えるとそこに自ずと感動を、愛を感じる人が生まれます。
○『愛のない暮らし』
一方で、愛に飢え、愛を、感動を感じたくても感じられない境遇にいる人が少なくありません。特に最近の子どもたちの境遇を見ると愛が感じられない家庭も多く、夜の街をたむろしている若者たちが「家に帰っても美味しいご飯があるわけじゃなし」と逆に親が何か美味しいものを作って待ってくれていれば帰りたいというように愛に飢えた生活を強いられています。親の虐待に耐え、やっとの思いで社会人になり、そして家族をもった人もいるでしょう。しかし、いざ親になってみて何が親としての愛情表現なのかがわからず、厳しくしつけることと考えて結局は虐待をしているというケースもあります。愛を感じてもらうにはは「愛」という平面的な言葉ではなく、一人の人間として相手と向き合い、相手に関心を持ち、共に生き、共に感動し、共に悩むことではないでしょうか。
●『生き方が「愛」』
最近、よくテレビに出てくる「夜回り先生」こと水谷修さんは私を理解してくれる友人の一人です。彼は自分の生い立ちを含めて赤裸々にし、いま、それこそ全身全霊を込めて若者に愛を伝えています。しかし、彼が若者にかける言葉の中に「愛」といったものがあるでしょうか。「愛」という言葉がなくても彼の生き方そのものが「愛」です。そしてスローガンだけの「愛の大切さ」「いのちの大切さ」「思いやる気持ち」と言うことを言えば言うほど「うそっぽい」と子どもたちは敏感に感じ取ります。
最近、若者が加害者となる事件が起こるたびに「『いのちの大切さ』を伝えることを重視した対策を早急に徹底するように指示した」と言う反省の弁が語られます。そのような報道を見れば見るほど子どもたちは大人たちのいい加減さ、愛情のなさ、無関心さを感じてますます生きる力を失っています。むしろ「どうしてこんなことがおこるのでしょうか。正直私には理解できません」といい、若者たちに「どうしてこんなことが繰り返されるのだと思いますか」と聞いて回る、それも若者を中心とした住民公聴会を行ってはどうでしょうか。
○『ほめることは感動の共有』
水谷修さんは講演の中で「叱った数が多いか、ほめた数が多いか考えてみてください」と聴衆に聞きます。叱られたら萎縮しますが、ほめられたらほめてくれた人に感謝し、ほめられた自分に自信を持ち、自分に感動できます。自己肯定感、自尊感情が生まれます。しかし、人をほめるためにはコミュニケーション、会話ができないとだめです。
最近、研修会でグループワーク等を通した参加者の発表が行われる時に求められる私のコメントはほとんどがその発表をほめる内容になっているようです。そして参加者からはエンパワーされた、元気をもらったという反応が少なくありません。以前はどちらかというと「そういう考えもあるでしょうが・・・・・・」と自分の考えを押し付けていましたが、過去の批判的な自分の気持ちと、現在のほめている自分の気持ちがどう違っているのかと分析してみると、自分の限界を知り、人のアイディアを素直に受け入れられる、素直に感動できる自分自身のこころの余裕の違いかと思いました。相手の言葉に感動できれば自ずとほめ言葉がでますよね。一方で、相手を認められない、信じられない、自分自身が自信過剰だとほめることが出来ないようです。
●『既に育った感性を信じて』
先日私の講演を聴いてくれた高校1年生の生徒さんの感想文です。
『私は恋人ができても、結婚するまで相手が望んでいようが、相手に嫌われようが、性行為はしたくありません。私は「自分を大切にしろ。自分の行動に責任を持って行動しろ。」といつも言っている両親を誇りに思っているからです。』(女子)
『(コンドームを財布に入れても)お金はたまらないって分かったのは少しショックでしタ。2つも入ってるのニ・・・・・』(女子)
『先生のコンドームのつけ方の講演でしたけど、たかがコンドームつけるごときでアソコまでやることが多いというのはびっくりしました。この話はかなり役に立ちました。この時期に先生の話を聞けてよかったです。何かあったときはよろしくお願いしますね。』(男子)
私の同じ話を聞いて、まったく違う感想を書いてくれる若者たちを見ていると、大人たちはもっと自信をもって自分たちの経験を語る必要があると感じます。しかし、残念ながら性器の名称やコンドームというのが出てくるだけで「性教育ではなく性器教育だ」という反論や、「コンドームや露骨なセックスの話を聞き、かえって性に対して嫌悪感をもってしまった中学生もいる」という短絡的な指摘が強調されます。確かに性に対して否定的なイメージを持ったお子さんがいた場合は、性情報や性的な表現に対して嫌悪感をあらわにするかもしれません。しかし、その嫌悪感の背景には性的なトラブルやトラウマが存在し、そこでは「どうして嫌悪感を持ってしまうのだろう」というカウンセリングが必要な場合があることを見逃さないでもらいたいですね。
○『感性を育める環境整備を』
性のように価値観、環境、個人的な経験が大きく影響する問題の場合は、より多くのコミュニケーションを通して感性を育む環境整備が必要ではないでしょうか。
「岩室の話を聞いてどう思ったか」という感想文を書かせるだけではなく、大いにディスカッションをし、「あんな話は聞きたくなかった」という人の声も共有し、「役に立った」という人の声からも学び、多様性を認め合えれば一人ひとりの自尊感情ももっと高まるんでしょうね。
☆『思春期保健指導者研修会のお知らせ』
・主催:ヘルスプロモーション研究センター
・日時:2004年11月18日(木)〜19日(金)
・内容:講義、グループワーク、実演演習を予定
・対象者:主に市町村、保健所で思春期保健、エイズ対策担当
・会場:都道府県会館 4F 408会議室
・講師:岩室紳也、北山翔子、地域保健現場の実践者
・定員:30名(先着順)
・参加費:7000円(部分参加はご相談ください)
・締め切り:10月30日(先着順)
・申し込み先:紳也’HP参照
http://homepage2.nifty.com/iwamuro/
◆CAIより今月のコラム
「イマドキの親子」
先週から邦楽を子供達に教える地域の会に、助手として参加している。そこではニュースで見たことがあったような、教育に対し、過保護なくらいの親御さんが多く見受けられた。
ある人はずーっと最新式のビデオカメラで子供を追っている。
ある人は後ろにたって、ヒヤヒヤしている。
途中で「ちょっと先生!この子小指が痛いって言ってるんですけど!」と凄い剣幕で迫られるが、三味線のバチを持つとき、最初は痛いものである。
はたまた別の親は「先生〜うちの子音感いいでしょ〜?ピアノもバイオリンもやらせていましたから〜ん☆」と自慢げなので、私は愛想よく頷いてみた。
・・・が、その子はかなりの音感の悪さだった。
しかし性教育も同じことかもしれない。
大人が子供の体を管理するのではなく、子どもが自分自身の体を自主管理できる力を本来養うべきだ。
三味線も、お母様の心で習得するものではなく、子供が自分の感性で稽古を重ねていくものではなかろうか。
子供の自主性をどこまで信じるのか、バランスは難しいところである。
O.S